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船木 常平(ふなき つねひら、生誕年未詳〔長兄・興平の生まれた永正2年(1505年)から、常平が弘平の養子となった永正10年(1513年)の間には生まれている筈である。〕-天文10年(1541年〔こちら より。〕))は、戦国時代の武将。安芸の国人領主。別名、康平(やすひら)〔。 小早川氏の嫡流・沼田小早川氏の一族で、実父は小早川扶平。幼少期の養父は小早川弘平。実兄に小早川興平、子に平賀隆保(次男)などがいる。 == 生涯 == 小早川扶平の子として生まれる。幼名、小早川福鶴丸〔。永正5年(1508年)に父・扶平が亡くなり、沼田小早川氏の家督を継いだ長兄の興平がまだ幼少であったことを契機として、近隣の強大勢力である大内義興らはこの家督を懇意にあった竹原小早川氏の小早川弘平に継がせようとしていたが、これに対し小早川氏の家臣団は、大内氏に支配されることを嫌って、弘平を興平の後見人に迎えた上、永正10年(1513年)には、弘平に対して興平の弟である福鶴丸を養子として取らせて、義興や尼子経久などの介入を未然に防いだのである。 当初は弘平の養嗣子として竹原小早川氏の後継者とみなされていたが、永正16年(1519年)、弘平に実子の興景が誕生したため、まもなく縁組を解消されたものと思われる。 その後は一旦実家に戻って、新たに船木姓を称し、元服して諱も「常平」とする。やがて総領家(嫡流家)に従って大内氏に属すこととなるが、天文10年(1541年)、尼子氏に通じた罪により殺害された。また別説として、「大内義隆記」では、大内方に転じた総領家(実兄の興平またはその子正平か)に居城の三石城を攻められて、天文10年(1541年)正月晦日に自刃したと伝える〔こちら より。〕。 いずれにせよ、天文10年(1541年)に死去したのは間違いないようであり、遺された子息たちは大内義隆に預けられた。このうちの一人、平賀隆保は義隆の1字を受けて平賀氏を継ぎ、家臣として重用された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「船木常平」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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