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船津文淵,または舩津文渕(ふなつ ぶんえん,文化3年〈1806年〉 - 安政3年〈1856年〉〔 - 足立区教育委員会 2016年2月15日〕)は,幕末に活躍した谷文晁門下の絵師である. == 人物 == 舩津文渕とは,文化3年〈1806〉に幕領としての武蔵国足立郡渕江領上沼田村(現在の東京都足立区江北)の有力農家に生まれた,舩津徳右衛門重許のことである.家督を相続する前には久五郎を名乗っていた.舩津家は上沼田村ほか寛永寺領七か村をまとめる村役人であった〔〔多田文夫,「地域社会の文化受容と変遷 – 足立の近世文芸と近代学術」,展覧会図録『文化遺産調査 美と知性の宝庫 足立 – 酒井抱一・谷文晁の弟子たち –』足立区立郷土博物館,2006年3月,pp.100-101.〕. 絵師・文人として活躍していた谷文晁に絵を学び,文政9年(1826)に20歳で「文渕」の雅号を許された.「渕」は渕江領に由来するとされている〔.さらに菜菴という号も使っており,「印集」に落款に用いた印や蔵書印が残されている. 天保3年(1832)から10年(1839)にかけての『註文簿』〔鶴岡明美,「写山楼と足立 – 舩津家資料が結ぶ二つの地域 –」,同展覧会図録,pp.11-17.〕 には,近隣の有力農家から扇子や襖,掛け軸などの絵の制作依頼が次々と来ていることが記録されている.また,嘉永2年(1849)から安政3年(1856)9月に亡くなる直前まで書かれた日記『菜菴雑記』や『菜菴日記』〔山崎尚之,「舩津文渕の日記について」,同展覧会図録,pp.81-82.〕には,谷文逸(二世文一)ら同門の人々との画本の貸し借りや訪問,小旅行など,絵師としての付き合いが記されている.この日記には,江戸近郊の有力農家としての農業生産に関するものや,さらには,安政2年(1855)の安政江戸地震に関する記述もある.文政13年(1830)に伊勢に旅をしたときの記録『勢州道の記』も残されており,舩津文渕が筆まめな人であったことが分かる. 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「船津文淵」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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