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船田合戦(ふなだがっせん)は、戦国時代前期に発生した、美濃守護土岐成頼の後継者を巡る斎藤妙純と石丸利光の合戦。近隣の近江・越前・尾張も巻き込んでの争乱となった。 == 前史 == === 文明美濃の乱 === 室町時代になると美濃守護土岐氏の権力は衰え、代わりに守護代の斎藤氏が台頭し、守護の後継を決めるまでになっていた。康正2年(1456年)に土岐持益が隠居させられ、斎藤利永が擁立した土岐成頼が守護に就任したことがその表れである。 長禄4年(1460年)の利永の死後は嫡男の利藤が守護代職を継いだが、幼少のため利永の弟で叔父の斎藤妙椿が後見人となった。応仁の乱で妙椿は西軍に加わり、美濃国内の荘園を横領、反対勢力を駆逐して近江・越前・尾張へ進出、成頼の被官でありながら事実上美濃の支配者となった。妙椿の家系は守護代家に対して持是院家と呼ばれる。 文明12年(1480年)2月に妙椿が亡くなると持是院家は甥の利国(妙純)が継いだが、妙純の異母兄利藤が妙純と対立、妙椿がかつて横領した荘園8万石を妙純が守護成頼を通して返還したことから8月27日に合戦が始まったが、室町幕府の支援を得た利藤に対して成頼は妙純を支持、11月に利藤が敗れて近江の六角高頼の元へ逃れたが〔かつて六角高頼は応仁の乱で妙椿の支援を受けていたが、文明10年(1478年)に幕府と和睦、この頃になると幕府の命令で利藤に与して妙純と対立した。〕、妙純の重臣石丸利光に追討され京都へ逃亡した(文明美濃の乱)。 文明13年(1481年)7月、室町幕府と成頼・妙純は和睦したが利藤の守護代復帰はならず、長享元年(1487年)に幕府の仲介で利藤は守護代に復帰、翌年に美濃へ戻った。しかし、実権は妙純が握っており、幕府の命令は妙純を通して成頼へ、次に利藤へ伝えるという形を取ったため、利藤の不満は解消されないままであった。文明美濃の乱で功績のあった石丸利光は文明13年2月に妙純から斎藤姓を与えられて後に又代の座に就いたが、次第に利藤に接近していった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「船田合戦」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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