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良成親王(よしなりしんのう/ながなり ―〔郷土史においては、「りょうせいしんのう」と有職読みで読まれることがある。〕)は、南北朝時代から室町時代初期にかけての南朝の皇族。 近世の南朝系図によると、後村上天皇の第七皇子で、母は越智家栄の女・冷泉局(新待賢門院冷泉)とされるが、同時代史料には名が見えないため、親王の実在自体を疑う説は少なくない。だが、征西将軍懐良親王(後醍醐天皇皇子)の跡を継承して九州南軍を指揮した後征西将軍宮(のちのせいせいしょうぐんのみや)とは、良成親王に比定されるのが旧来の通説であり〔征西将軍良成親王について、宮内省図書寮編『後村上天皇実録』(『天皇皇族実録75』所収)の按文には、「親王ノ名、他ニ所見ナキモ、懐良親王ノ後ヲ受ケテ九州ニ号令セル将軍宮ハ蓋シ此親王ナルベケレバ、今姑ク南朝事跡抄所引ノ古本帝王系図、古物屋本皇胤紹運録ニ拠リ掲記ス、」とあり、また、『大日本史料』(6編41冊、文中3年12月25日条)の按文には、「征西将軍宮ノ御諱、泰成・師成等ノ異説アリテ一定シ難キモ、今姑ク通説ニ従フ、」とある。〕、他に有力な異説も見当たらないため(後述)、本項では後征西将軍宮の事績を親王のそれとして記述する。 == 経歴 == 正平21年/貞治5年(1366年)頃にわずか数歳で九州征西府(大宰府)へ下向。親王宣下を受けた後、正平24年/応安2年(1369年)12月伊予の河野通直の許に派遣され、しばらく所領訴訟の処理などの領国経営に当たる。この征討行は、四国管領細川頼之の上洛(1367年)後に通直が勢力拡大しつつあるのに乗じ、征西府が瀬戸内海の東上路を確保するため企図したものという。文中3年/応安7年(1374年)冬には征西府(隈部城)へ戻り、叔父・懐良親王から征西将軍職を譲られた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「良成親王」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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