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忍性(にんしょう、建保5年7月16日(1217年8月19日) - 乾元2年7月12日(1303年8月25日))は、鎌倉時代の律宗(真言律宗)の僧である。房名(通称)は良観。父は伴貞行(後に叡尊教団の斎戒衆となり慈生敬法房と名乗った?)。大和国城下郡屏風里(現奈良県磯城郡三宅町)に生まれる。 == 活動 == 忍性は早くから文殊菩薩信仰に目覚め、師叡尊からは真言密教・戒律受持・聖徳太子信仰を受け継いでいる。聖徳太子が四天王寺を創建に際し「四箇院の制」を採った事に、深く感銘しその復興を図っている。四箇院とは、仏法修行の道場である敬田院、病者に薬を施す施薬院、病者を収容し病気を治療する療病院、身寄りのない者や年老いた者を収容する悲田院のことで、極楽寺伽藍図には療病院・悲田院・福田院・癩宿が設けられており、四天王寺では悲田院・敬田院が再興されている。また、鎌倉初期以来、四天王寺の西門付近は「極楽土東門」すなわち極楽への東側の入り口と認識されており病者・貧者・乞食・非人などが救済を求めて集まる所となっていた。忍性はここに石の鳥居を築造しこれらの人々を真言の利益にあずからせようとしたのだろう。 師の叡尊は民衆への布教を唱えながら、自分には不得手であることを自覚して当時の仏教において一番救われない存在と考えられていた非人救済に専念し、その役割を忍性に託した。忍性は非人救済のみでは、それが却って差別を助長しかねないと考えて非人を含めた全ての階層への救済に尽力した。その結果、叡尊と忍性の間に齟齬を来たし、叡尊は忍性が布教に力を入れすぎて学業が疎かになっている(「良観房ハ慈悲ガ過ギタ」(『聴聞集』))と苦言も呈している。真言律宗が真言宗とも律宗とも一線を画していくことになるのには、忍性の役割が大きいと言われている。 『性公大徳譜』によると忍性が生涯で草創した伽藍83ヶ所(三村寺・多宝寺・極楽寺・称名寺など)、供養した堂154ヶ所、結界した寺院79ヶ所、建立した塔婆20基、供養した塔婆25基、書写させた一切経14蔵、図絵した地蔵菩薩1355図、中国から取り寄せた律三大部186組、僧尼に与えた戒本3360巻、非人(ハンセン氏病患者など)に与えた衣服33000領、架橋した橋189所、修築した道71所、掘った井戸33所、築造した浴室・病屋・非人所5所にのぼるとされている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「忍性」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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