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色部 照長(いろべ てるなが)は、江戸時代後期の米沢藩重臣で、侍組分領家の一つ色部氏当主。通称は弥三郎、典膳、修理。諱は照長。落飾後に遥山、松翠と号する。 == 経歴 == 色部政長(長門)の子として生まれる。宝暦11年12月14日(1762年1月8日)に奉行(他藩の国家老に相当)であった父が隠居したのを受けて家督相続。宝暦12年1月5日(1762年1月29日)に江戸家老に就任。 宝暦13年(1763年)に同じく江戸家老である竹俣当綱が江戸から米沢に下って、上杉重定の側近として権勢を振るう森利真を殺害するが、芋川正令や千坂高敦とともにこれを支持し、竹俣や色部、千坂らとともに江戸藩邸の重定の下に事後報告を行う。 藩財政窮乏に万策尽きた重定が、江戸幕府に藩土を返上することを相談するために、照長が重定の親族である尾張藩の下に派遣される。しかし、宝暦14年1月(1764年)には尾張藩より戒められる旨の返答が返される〔なお、徳川宗勝が重定の宥め役になったとするのが一般的だが、宗勝はこの返答よりも前の宝暦11年(1761年)に死去している。〕。 明和4年(1767年)に重定が隠居し、上杉治憲が家督相続すると、治憲や米沢新田藩主(支侯)上杉勝承とともに白子神社に大倹実行の誓詞を奉納する。 明和6年1月5日(1769年2月11日)に、先年の芋川正令の辞職もあって奉行に昇進するが、安永2年(1773年)に須田満主と芋川延親が主導する竹俣当綱派排除の強訴(七家騒動)に加担したために失脚し、千坂同様に石高半減、隠居・閉門処分となる。色部家家督は弟の至長が相続する。安永4年7月3日(1775年7月29日)に閉門を解かれる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「色部照長」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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