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芍陂の役[しゃくひのえき]
芍陂の役(しゃくひのえき)は、中国三国時代の241年に、魏と呉の間で行われた戦い。呉帝孫権は、四路から魏を攻めたが、芍陂及び樊城で大敗を喫し、呉軍は撤退した。芍陂が主要な戦場であったことから芍陂の役と呼ばれているが、実態としては揚州方面と荊州方面の二正面攻撃であり、戦場は広範囲に渡っている。 ==事前の経緯== 241年春、呉の零陵太守である殷札は、魏帝曹芳が非常に幼く即位してからまだ間もないことから、今が魏を征伐する絶好の機会であると呉帝孫権に進言し、以下のような計画を立案した。まず、荊州・揚州の民を徴兵し、強者を前線に送り老弱の者に後勤を命じる。それから蜀と連携を図り長安方面へ出兵させる。呉軍は諸葛瑾、朱然を襄陽へ、陸遜、朱異を寿春へ進軍させ、孫権自らも軍を率いて淮河を北に進み青州・徐州へ侵攻する。襄陽や寿春を包囲し、長安以西も蜀軍の攻撃を受ければ、許昌や洛陽に動揺がうまれるであろう。その後、魏軍を四路のうち一路でも打ち破ることが出来れば戦線は崩壊して他の三路もやがて瓦解し、そこで更に攻勢をかければ中原一帯を平定するのは容易いであろうというものであった。孫権は失敗したときの危険性を考慮してこの作戦自体は容れなかったが、魏への大規模出兵を決意するに至った。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「芍陂の役」の詳細全文を読む
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