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芝 不器男(しば ふきお、1903年(明治36年)4月18日 - 1930年(昭和5年)2月24日)は、愛媛県出身の俳人。「天の川」の代表作家として活躍、「ホトトギス」でも四S以降の新人として注目されたが、句歴四年、26歳で夭折した。 == 生涯 == 愛媛県北宇和郡明治村(現・松野町)で生まれる。父・来三郎、母・キチの四男。父は教員や村長を歴任し俳句も作った。「不器男」の命名は『論語』の「子曰、君子不器」(子曰く、君子は器ならず)による。1920年(大正9年)、宇和島中学校(一級上に富澤赤黄男がいた)を卒業し、松山高等学校に入学。 高校では山岳部に所属、日本アルプスを踏破した。 1923年(大正12年)、東京帝国大学農学部林学科に入学。夏期休暇で愛媛に帰省中に関東大震災が起こったため休学。以後東京へは行かなかった。家郷にて、姉の誘いで長谷川零余子が主宰する「枯野」句会に出席し句作を始める。当初、号を芙樹雄または不狂としていた。1925年(大正14年)東京帝大を中退し、東北帝国大学工学部機械工学科に入学。兄の勧めで吉岡禅寺洞の主宰する「天の川」12月号より投句。翌月号で早くも巻頭を取り、以後内田慕情、日野草城と巻頭を競う。また禅寺洞に勧められ、本名の不器男を俳号とした。 1926年(大正15年)、「ホトトギス」にも9月号より投句を始め、入選句「あなたなる夜雨の葛のあなたかな」が高浜虚子の名鑑賞を受け注目を浴びる。冬季休暇で帰省して以後は仙台に戻らず、1927年(昭和2年)東北帝大より授業料の滞納を理由に除籍処分を受ける。 1928年(昭和3年)、伊予鉄道電気副社長・太宰孫九の長女・文江と結婚し、太宰家の養嗣子となる。1929年(昭和4年)、睾丸炎を発病し、福岡市の九州帝国大学附属病院後藤外科に妻を伴い入院。この時に初めて禅寺洞と対面した。12月に退院し福岡市薬院庄に仮寓。「天の川」の俳人であった主治医・横山白虹の治療を受ける。1930年(昭和5年)1月になると病状が悪化し、2月24日午前2時15分永眠、享年26。 1934年(昭和9年)、横山白虹によって限定300部の『不器男句集』が編まれ、175句が収められた。白虹は「彗星(コメット)の如く俳壇の空を通過した」と不器男を評している。その後は『定本芝不器男句集』(1970年)、『不器男全句集』(1980年)などが出ている。 郷里の松野町では、毎年命日に「不器男忌俳句大会」が開催されている。1988年(昭和63年)、松野町が生家を改装し、「芝不器男記念館」が開館。2002年(平成14年)には生誕100年を記念し、愛媛県文化振興財団により芝不器男俳句新人賞が設けられた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「芝不器男」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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