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芝 蘇呂門(しば そろもん、1906年〔キネマ旬報社, p.200(岸松雄「芝蘇呂門」)。〕 - 没年不詳)は、日本の映画監督、脚本家である。本名佐々木 美長(ささき よしなが)名義で脚本家としてデビュー、マキノ・プロダクションで監督になり、のちに神田 金太郎(かんだ きんたろう)と改名した〔。 == 来歴・人物 == 1906年(明治39年)ころ、長野県松本市に生まれる〔。 大学卒業後、映画監督の鈴木謙作を頼って日活大将軍撮影所に入社、19歳になる1925年(大正14年)、鈴木監督にオリジナル脚本を採用され、『血の人形』として同年11月13日に公開される(「佐々木美長」名義)。当時鈴木は同作の主演でもある女優の宮部静子との恋愛問題で撮影所内で評判がよくなかったこともあり、芝蘇呂門をつれてマキノ・プロダクションに移籍する〔。 1926年(大正15年)の入社早々、牧野省三にオリジナル脚本を採用され、御大自らの監督作『大江戸の丑満時』、高見貞衛監督の『バィオレットお伝』として公開された。翌1927年(昭和2年)、自らのオリジナル脚本作『踊る霊魂』で、21歳で監督としてデビューする。同年、監督第2作『狂めく舞踏場』を手がけたのちに同社を退社、休養に入る。1928年(昭和3年)6月7日、映画の研究を目的に「天洋丸」で渡米した〔。 1929年(昭和4年)9月、帰国してマキノに復帰、「神田金太郎」と改名した。すでに師匠の鈴木謙作も退社しており、牧野省三の没後であった。翌1930年(昭和5年)1月5日公開のオリジナル脚本作『職工慰安会』が帰朝第1作となった。「チャップリンのもとで修行した」との触れ込みで、チャップリンと撮った写真を証拠に映画論を語っているとの噂を聞きつけた市川右太衛門が仕事を発注、オリジナル脚本による『榛名の梅ケ香 安中草三』となり、同作は1931年(昭和6年)1月5日に公開された。その次の監督作は、体調を崩し、脚本に専念していた悪麗之助が「陸大蔵」名義で書いたオリジナル脚本による『血煙一番槍』であったが、それ以来、姿を消した〔。すべてサイレント映画の時代の話である。 第二次世界大戦後、小石栄一監督が三益愛子主演の母もの(1948年の『母』『母紅梅』か)のロケーション撮影で松本市を訪れたところ、それを報じた新聞記事を見た芝蘇呂門(神田金太郎)が小石の宿泊地に現れ、近況を語ったという。母校でテニスを教え、実家の経営する貸家の賃貸収入で優雅に暮らしているとのことであった〔。没年不詳。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「芝蘇呂門」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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