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芥川 孫十郎(あくたがわ まごじゅうろう、生没年不詳)は、戦国時代の武将。摂津国芥川山城主。三好氏の一族で芥川長光の子。妻は従兄に当たる三好元長の娘とされているが、諸説あり定かでない〔『細川両家記』に元長の次男実休の妹婿、『足利季世記』に姉婿と書かれているが、『続応仁後記』に種替の妹と書かれている。長江、P136。〕。諱は不明。 天文15年(1546年)に細川氏綱・遊佐長教が反乱を起こし、摂津の諸城を攻撃し始めると他の国人達に倣い9月18日に降伏し、芥川山城を薬師寺元房に奪われた。しかし、翌天文16年(1547年)に三好長慶と主君の細川晴元が反撃すると6月25日に元房が降伏、芥川山城は返却された。天文17年(1548年)に長慶が晴元及び同族の三好政長に反旗を翻すと長慶に同調し、摂津と山城国の国境付近を封鎖して晴元・政長軍の行軍を妨害、翌天文18年(1549年)の江口の戦いの勝利に貢献した〔長江、P88、P91、P101 - P103、今谷、P134 - P136、P143 - P147、福島、P100 - P101。〕。 天文21年(1552年)4月に長慶が丹波国に遠征すると、晴元派の波多野晴通と内通して長慶に背いた。12月に一旦長慶の下に帰参したが、翌天文22年(1553年)7月に足利義藤と結んだ晴元に呼応して再び反逆、長慶を東西から挟撃した。しかし、即座に芥川山城を包囲され、8月に義藤らも長慶に敗れ近江国坂本へ退避したため孤立する。8月22日に芥川山城を長慶に明け渡し降伏し、長慶の弟三好実休を頼り阿波国へ出立するが、以後消息不明となる。長慶は芥川山城を居城として三好氏の最盛期を築いた〔長江、P123、P126、P132 - P137、今谷、P173、P176 - P184、福島、P109 - P112。〕。 == 脚注 == 〔 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「芥川孫十郎」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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