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葦屋浦の戦い(あしやうらのたたかい)は、平安時代末期の内乱、治承・寿永の乱の戦いの一つ。元暦2年/寿永4年(1185年)2月1日、源範頼率いる平氏追討軍が筑前国の葦屋浦(福岡県遠賀郡芦屋町・西浜町・白浜町・幸町一帯の湾港)で、九州の平家方の豪族原田種直らとの合戦に勝利して九州上陸を果たした戦い。 == 経過 == 前年2月の一ノ谷の戦い後、屋島に敗走した平家一門は、なお瀬戸内海一帯の制海権を握り勢力を保っていた。元暦2年(1184年)、源頼朝は海上が平穏になる6月頃から行動開始の準備を始め、8月に弟の範頼を総指揮官として鎌倉から東国武士の総領格をそろえた主力部隊を西上させ、9月1日、範頼率いる平氏追討軍が京を出発した。山陽道を下って10月に安芸国まで軍勢を進めたものの、平氏の平行盛軍によって兵站を断たれて窮乏し、九州まで兵を進める計画は頓挫していた。11月中旬に範頼は鎌倉の頼朝への書状で兵糧の欠乏、兵の士気の低下をしきりと訴えており、頼朝からは船と兵糧を送ることと、くれぐれも地元の九州武士の恨みを買わないこと、東国武士を大切にすることなど、細かい注意を繰り返し書いた返事が出されている。 12月7日の藤戸の戦いでは佐々木盛綱の活躍で辛勝するも、水軍力を持たず兵糧も得られない範頼軍の苦戦は続き、年が明けた元暦2年(1185年)正月12日、周防国から平氏が拠る長門国赤間関に到達して九州へ渡海しようとしたが、彦島の平知盛軍に行く手を阻まれ、平氏追討もままならなかった。逗留は数日に及び、東国武士達に厭戦気分が蔓延し侍所別当の和田義盛さえも密かに関東へ帰ろうとする始末であった。 しかし早くから反平氏の兵を挙げていた豊後国の豪族緒方惟栄と臼杵惟隆の兄弟から兵船82艘の献上があり、周防国の宇佐那木上七遠隆から兵糧米の提供を受け、範頼軍はいったん周防国へ戻って26日にようやく豊後国へ船出した。 この日渡海したのは北条義時、足利義兼、小山朝政、同宗政、同朝光、武田有義、中原親能、千葉常胤、同常秀、下河辺行平、同政義、浅沼広綱、三浦義澄、同義村、八田知家、同知重、葛西清重、渋谷重国、同高重、比企朝宗、同能員、和田義盛、同宗実、同義胤、大多和義成、安西景益、同明景、大河戸広行、同行元、中条家長、加藤景廉、工藤祐経、同祐茂、天野遠景、一品坊昌寛、土佐坊昌俊、小野寺道綱らである。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「葦屋浦の戦い」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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