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花山院 定雅(かざんいん さだまさ)は鎌倉時代の公卿。右大臣・正二位・左近衛大将。花山院忠経の三男。粟田口入道右大臣、または後花山院入道前右大臣と号する。 == 経歴 == 以下、『公卿補任』ならびに『尊卑分脈』の内容に従って記述する。 元仁2年(1225年)1月23日、従五位下に叙される。嘉禄2年(1226年)1月23日、侍従に任ぜられる。同年7月29日、中宮権亮を兼ねる。同年10月19日には禁色を許され、同年12月21日には従五位上に昇叙。安貞元年(1227年)10月4日、正五位下に昇叙。安貞2年(1228年)2月1日、従四位下に昇叙。寛喜元年(1229年)8月25日に父忠経が薨去したため喪に服す。9月21日に復任した。寛喜3年(1231年)1月29日、阿波介を兼ね、同日に左近衛権中将に任ぜられる。同年10月28日、春宮権亮を兼ねる。寛喜4年(1232年)1月5日、従四位上に昇叙。同年10月4日、蔵人頭となり、同年12月2日には正四位下に昇叙。文暦元年(1234年)12月21日、参議に任ぜられる。左中将は元の如し。文暦2年(1235年)1月23日、讃岐権守を兼ねる。同年8月30日、従三位に叙せられる。同年11月17日には近江権守を兼ねる。嘉禎2年(1236年)6月9日、権中納言に任ぜられる。また、同年中に正三位に昇叙か。嘉禎3年(1237年)12月25日、従二位に昇叙。暦仁2年(1239年)1月27日、正二位に昇叙。同年10月28日、権大納言に任ぜられる。以後しばらくは正二位行権大納言のまま過ごす。建長2年(1250年)12月15日、大納言に転正し、同月24日には左近衛大将を兼ねる。建長4年(1252年)7月20日、内大臣に任ぜられ左大将は元の如し。また同年11月3日には右大臣に転任。左大将は変わらず兼任。建長5年(1253年)3月24日、左大将を辞した。建長6年(1254年)11月17日、右大臣を辞した。康元元年(1256年)11月27日〔『百練抄』では12月27日の出家とする。〕、出家し法名を隆覚とした。永仁2年(1294年)2月30日、薨去。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「花山院定雅」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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