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花山院 家教(かざんいん いえのり)は鎌倉時代中期の公卿。太政大臣・花山院通雅の次男。正二位権大納言左近衛大将。 == 経歴 == 弘長2年(1262年)正月に従五位下に叙爵。同年3月に父の譲りで従五位上に昇叙。弘長3年(1263年)に正五位下に叙せられ、文永3年(1266年)侍従に任ぜられる。 文永5年(1268年)従四位下・侍従に叙任。文永7年(1270年)には従四位上・阿波権介となり、文永9年(1272年)に正四位下に叙せられる。文永10年12月(1274年2月)に右近衛権中将に任ぜられ、ほどなくして左近衛権中将に転じる。建治2年(1276年)従三位・備中権守に叙任されて公卿に列し、同年さらに参議に任ぜられるが、父・通雅の薨御により喪に服した。 建治3年(1277年)正三位、建治4年(1278年)従二位に昇叙。弘安2年12月(1280年1月)権中納言に任ぜられる。弘安6年(1283年)権中納言を辞退するが同年中に還任し、弘安7年(1284年)正二位に叙せられた。また、大宮院(西園寺姞子)の院司を務め、弘安8年(1285年)の北林准后(四条貞子)の九十賀に奉行してその次第を作進している〔『准后貞子九十賀記』(宗冬卿記)。〕。正応元年(1288年)には中納言に転じ、同年さらに権大納言に昇進した。正応2年(1289年)には春宮大夫を兼ね、正応5年(1292年)には左近衛大将も兼帯した。 永仁2年(1294年)正月16日に踏歌節会の内弁を務め、2月には久子内親王の院号を決定する議定において、家教は花山院師信らとともに永陽門院を推して採用されている〔『勘仲記』永仁2年2月7日条。〕。同月末に祖父・定雅の薨御により喪に服し、4月に復任した。永仁5年(1297年)5月15日、病により職を辞任して21日に出家。26日に薨去した。享年37。 20代より儀式の次第を作進し、正応2年(1289年)や正応4年(1291年)の正月の叙位の議では執筆を務めるなど、有職故実に詳しかった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「花山院家教」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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