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花山院 家賢(かざんいん いえかた)は、南北朝時代の公卿・歌人。贈太政大臣花山院師賢の子で、母は花山院家定の女(妙光寺内大臣母)。長親らの父。初め北朝に仕えたが、失脚後は南朝で栄達した。妙光寺と号する。 == 経歴 == 元弘2年/正慶元年(1332年)討幕に関与した父師賢が流罪地で客死したものの、母方の庇護があったためか、北朝の下で官位は順調に進み、侍従・右近衛中将・春宮権亮などを歴任。正平2年/貞和3年(1347年)11月従三位に叙されて公卿に列し、正平3年/貞和4年(1348年)4月参議に任じられ、正平4年/貞和5年(1349年)12月の崇光天皇即位式に際しては親王代を務めた。正平5年/観応元年(1350年)10月大嘗会御禊行幸の供奉に関して「子細」を申し出たために職を止められたが、翌正平6年/観応2年(1351年)6月花山院長定(母の弟)の推挙で還任。南朝による正平一統後も北朝に留まり、正平8年/文和2年(1353年)12月権中納言に任じられ、正平9年/文和3年(1354年)4月左衛門督を兼ねる。ただ、閏10月には何らかの事情で辞職しており、以降北朝での昇進は見られない。正平10年/文和4年(1355年)後光厳天皇の避難する近江行宮(成就寺)への不参を咎められ、徳大寺公清らとともに家領を一時没収される処分を受けた〔『園太暦』文和4年5月22日条、8月5日条〕。 正平12年/延文2年(1357年)1月ついに兄信賢とともに南朝(当時の行宮は金剛寺)へ参候し、再び家領を没収された〔『園太暦』延文2年正月27日条、『園太暦目録』同年2月2日条〕。南朝では元の官位のまま任用されたらしく、中納言から権大納言を経て、正平20年/貞治4年(1365年)右近衛大将として所見〔『正平二十年三百六十首』〕。翌正平21年/貞治5年(1366年)内大臣に至ったが、同年6月23日現職で薨去した。享年41か。 南朝歌壇における中心歌人であり、自邸で百首歌を主催した他、正平18年(1363年)の『内裏名所百首』・『探題五十首』、同20年(1365年)の『内裏三百六十首歌』・『探題七百首』などに詠進した。准勅撰集『新葉和歌集』には「妙光寺内大臣」として52首が入集し、また、勅撰集『新続古今和歌集』にも1首が入集する。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「花山院家賢」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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