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花山院 師兼(かざんいん もろかね)は、南北朝時代の公卿・歌人。出自に関しては明確な史料を欠き、一般には内大臣花山院家賢の子と推定されているが、他に権中納言花山院兼信の子とする説〔安井久善 「花山院師兼という歌人」(『和歌史研究会会報』第89号 和歌史研究会、1986年3月、)〕もある。南朝に仕えた。 == 経歴 == 京都で生まれ、正平12年/延文2年(1357年)1月に父家賢らとともに南朝へ参候したか。当初、閑院流の某家の養子として叙爵された可能性もある〔『正平二十年三百六十首』に詠進した「公悲朝臣〔ママ〕」は朱注によると後の師兼であるというが、人名として不審であり、転写上の誤りも考えられよう。〕。天授元年/永和元年(1375年)の『五百番歌合』に春宮権大夫(本官は権中納言か)として出詠しているのが確実な初見〔井上宗雄は、建徳2年/応安4年(1371年)2月の『三百番歌合』に出詠した「春宮権大夫」についても師兼に比定するが、これには異論が出されている。〕。天授2年/永和2年(1376年)夏末から始まる『千首和歌』にも詠進し、天授年間後半の成立とされる家集『師兼千首』の位署には「正二位行権大納言兼春宮大夫大学頭」と見えている。弘和元年/永徳元年(1381年)1月内裏歌会の序を奉り、同年12月に成立した『新葉和歌集』には24首が入集。元中3年/至徳3年(1386年)8月には長親・長親母らとともに『法門四十七首和歌』に詠進した。 元中4年/嘉慶元年(1387年)勅使として九州へ下向したことが『桜雲記』『南方紀伝』に見えるものの、その傍証となる史料を欠くために真偽の程は不明である。元中6年/嘉慶3年(1389年)1月には左近衛大将であった〔『耕雲千首』奥書〕。以後の動向は定かでないが、明徳4年(1393年)3月12日に嵯峨で薨去した「南方花山院内大臣四十五」(『常楽記』)とは、師兼のことである可能性が高い。恐らく南朝の最末期に内大臣へと昇進し、元中9年/明徳3年(1392年)の南北朝合一を迎えて入洛したのであろう。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「花山院師兼」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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