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藤原 忠宗 (ふじわら の ただむね) は、平安時代後期の公卿。左大臣・藤原家忠の長男。官位は従三位・権中納言。蔵人頭を9年間にも亘って務めるなど有能な政治家であり、「''天下を支ふるの臣''」と評された〔『長秋記』長承2年9月5日条。〕。 == 経歴 == 永長2年(1097年)従五位下に叙爵。康和2年(1100年)侍従に任ぜられ、康和4年(1102年)従五位上に進む。康和5年(1103年)東宮昇殿、続いて康和6年(1104年)昇殿を聴されて讃岐介を兼ねた。 嘉承元年12月(1107年1月)左近衛少将に任ぜられる。嘉承2年(1107年)には伊予介を兼ね、五位蔵人に補任。天仁元年(1108年)正五位下・丹波権介に叙任され、天永3年(1112年)従四位下に叙せられた。加賀権介を経て、永久5年(1117年)従四位上に昇叙。永久6年(1118年)に備中権介を兼ねる。元永2年(1119年)正四位下・左近衛中将に叙任され、元永3年(1120年)美作介、保安3年12月(1123年1月)蔵人頭に補せられ、翌保安4年(1123年)には中宮権亮も兼ねた。 美作権介・播磨介を兼帯し、大治5年(1130年)従三位・参議に叙任されて公卿に列す。大治6年(1131年)には丹波権守を兼ね、同年権中納言に任ぜられた。さらに中宮権大夫を兼ねるが、長承2年(1133年)9月1日の夜、俄かに調子を崩して父に先立って薨去したという。享年47。忠宗の死因は年来患っていた睡眠病(ある病によって絶えず眠りを催す症状をいう)であったが、同じく大治4年(1129年)に睡眠病により藤原顕隆が薨去したこともあって、当時尤も恐れるべき病とされた〔『中右記』長承2年9月2日条。〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「藤原忠宗」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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