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花山院 忠経(かざんいん ただつね)は平安時代末期から鎌倉時代の公卿。右大臣・正二位・右近衛大将。花山院右大臣と号する。左大臣藤原兼雅の長男。 == 経歴 == ※ 以下、『公卿補任』、『尊卑分脈』の内容に従って記述する。 * 承安5年(1175年)4月7日、叙爵。 * 治承元年(1177年)12月29日、侍従に任ぜられる。この日の夜に元服し、昇殿を許される。 * 治承3年(1179年)4月11日、従五位上に昇叙。同日、禁色を許される。 * 治承5年(1181年)3月26日、土佐権介を兼ねる。 * 寿永2年(1183年)1月7日、正五位下に昇叙。 * 元暦2年(1185年)1月6日、従四位下に昇叙。侍従は元の如し。 * 文治3年(1187年)1月23日、右中将に任ぜられる。〔これは少将13人を超えての補任であった。〕 * 文治4年(1188年)1月6日、従四位上に昇叙。同年10月14日、左中将に転任。〔この転任は父兼雅が右大将に任ぜられたためという。〕 * 文治5年(1189年)1月5日、正四位下に昇叙。同月18日、伊予介を兼ねる。また同年7月10日、従三位に叙される。左中将は元の如し。〔この叙位は先任の中将7人を越えての叙位という。〕 * 文治6年(1190年)1月24日、越中権守を兼ねる。 * 建久2年(1191年)1月5日、正三位に昇叙。 * 建久4年(1193年)12月9日、参議に任ぜられる。中将は元の如し。 * 建久5年(1194年)1月30日、讃岐権守を兼ねる。 * 建久6年(1195年)4月7日、従二位に昇叙。 * 建久8年(1197年)1月30日、権中納言に任ぜられる。同年2月17日には勅授帯剣を許される。 * 建久9年(1198年)4月23日、大嘗会の検校を務め、同年12月9日には皇后宮大夫を兼ねる。 * 正治元年(1199年)6月22日、中納言に転正。 * 正治2年(1200年)3月6日、権大納言に任ぜられる。同年4月15日、春宮大夫を兼ねる。同年7月18日に父兼雅が薨去したため喪に服し、10月11日に復任した。 * 正治3年(1201年)1月29日、正二位に昇叙。 * 建仁2年(1202年)11月3日、右近衛大将を兼ねる。〔この補任は内大臣兼右大将であった源通親が急逝したあとを受けての補任である。〕 * 元久2年(1205年)11月24日、大納言に転正。 * 元久3年(1206年)3月28日、内大臣に任ぜられる。右大将は元の如し。 * 建永2年(1207年)2月10日、右大臣に転任。同年4月10日、右大将を辞した。 * 承元2年(1208年)5月28日、上表して右大臣を辞した。 * 建保元年(1213年)12月22日、出家。 * 寛喜元年(1229年)8月5日、薨去。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「花山院忠経」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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