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藤原 忠雅(ふじわら の ただまさ)は平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての公卿。藤原北家花山院流・藤原忠宗の次男。官位は従一位・太政大臣。花山院太政大臣と号す。 == 経歴 == 忠雅は幼少時に父を亡くし、母方の叔父・藤原家成に引き取られて育った。治天である鳥羽院第一の寵臣の家成の引き立てもあり、院近臣として順調に出世を重ねる。保延元年(1135年)、12歳で土佐権守となった後、保延2年(1136年)に右少将、左少将兼美濃守、保延3年(1137年)に従四位下、保延4年(1138年)に従四位上、左近衛権中将、春宮権亮、正四位下、讃岐介、正四位上、蔵人頭となり、永治2年(1142年)に19歳で従三位として公卿に列する。この年より「悪左府」として有名な藤原頼長と男色関係に入る。 康治2年(1143年)に美作権守、久安元年(1145年)に参議、久安3年(1147年)に播磨権守、久安4年(1148年)正三位・権中納言、久安6年(1149年)に右兵衛督、仁平2年(1152年)に左兵衛督、久寿2年(1155年)に検非違使別当、保元元年(1156年)に中納言、左衛門督となる。力をつける平清盛にも近づき、息子・兼雅と清盛の娘を結婚させる事に成功する。保元4年(1159年)に従二位、永暦元年(1160年)に権大納言、応保元年(1161年)に正二位大納言、仁安元年(1166年)に右大将、右馬寮御監、仁安2年(1167年)に清盛の太政大臣昇任に伴い内大臣。 仁安3年(1168年)5月17日、辞職した清盛の後任として太政大臣就任、従一位に叙される。嘉応2年(1170年)6月6日まで勤める。承安元年(1171年)には娘を後任の太政大臣で後に関白になる松殿基房に嫁がせる。このように忠雅は、巧みな婚姻政策によって平氏政権の下で昇進し、後の花山院家の発展の礎を築いた。 元暦2年(1185年)62歳で出家、法名は理覚。建久4年(1193年)、70歳で死去。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「藤原忠雅」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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