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花山院 長定(かざんいん ながさだ)は鎌倉時代後期から南北朝時代の公卿。内大臣正二位右大将。護法院と号す。右大臣花山院家定の三男。母は一門である権大納言花山院長雅の娘。 兄2人が早世したために三男にして花山院家を継いだ。しかし長定自身も30代で辞官・出家しまい、子の兼定は若年にして家を継がねばならなくなる。 == 経歴 == 以下、『公卿補任』、『尊卑分脈』、『師守記』、『園太暦』の記事に従って記述する。 嘉暦元年(1326年)8月9日、少将を経ず左中将に直任される〔『師守記』貞和5年3月の記事に、十才未満で中将・少将に任ぜられた例として長定も挙げられている。同書には左中将に任ぜられた時、長定は正五位下侍従であったと記されている。〕。これは同年1月に兄・経定が権中納言のまま薨去したことによると考えられる。嘉暦3年(1328年)3月24日、伊予介を兼ねる。同年9月21日、正四位下に叙され、同年11月27日には従三位に叙された。左中将は元の如し。元徳2年(1330年)4月7日、権中納言に任ぜられ、同年8月4日には正三位に昇叙。建武2年(1335年)1月5日、従二位に昇叙。建武3年/延元元年(1336年)11月25日、左兵衛督を兼ねる。建武4年/延元2年(1337年)7月20日、左衛門督に転任。建武5年/延元3年(1338年)4月28日、大嘗会の検校をつとめ、同日正二位に昇叙。同年8月4日には左衛門督を止められる。暦応2年/延元4年(1339年)12月27日、権大納言に転任。暦応5年/興国3年(1342年)1月21日、養母の喪に服した。同年4月28日には父・家定が薨去したので再び喪に服し、同年9月7日に復任した。貞和4年/正平3年(1348年)10月7日、右大将を兼ねる。貞和5年/正平4年(1349年)9月13日、大納言に転正。観応2年/正平6年(1351年)6月26日、内大臣に任ぜられる。任内大臣の兼宣旨はなく右大将は元の如し。同年9月19日、素懐を遂げ出家した〔『公卿補任』によれば所労危急により菩提心が生じたためのようである。以後の動静は不詳だが急逝したわけではなく、『園太暦』文和4年(1355年)9月4日の条には既に入道していた長定が黒衣を着て深草金剛寿院に参じたとあるので、没年はこの年以降であろう。〕〔長定が辞した右大将は久我通相が任ぜられるまで約3年間空席状態が続いた。〕。法名静圓。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「花山院長定」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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