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花田 ミキ(はなだ ミキ、1914年〈大正3年〉9月9日 - 2006年〈平成18年〉8月1日)は、日本の保健看護研究家、保健指導者。青森県弘前市出身。 終戦後の青森県で、看護教育施設の建立に力を注ぐことで看護教育の基礎を築き上げ、保健行政の立場から無保健婦町村の解消、僻地救護看護の確立など、青森県民たちの命と健康を守るために尽力し続けた。その姿勢は平成期においても、青森県内の多くの看護関係者たちに引き継がれている。また戦時中に従軍看護婦の経験から、「命を阻むものはすべて悪」との信念を持ち、自費出版物などを通して戦争経験を語り続けた人物としても知られる〔。 == 人物歴 == === 戦前〜戦中 === 青森弘前高等女学校(後の青森県立弘前中央高等学校)を卒業後、家庭の経済的な事情でそれ以上の進学が望めず、女性の自立手段として看護の道を選んだ。日本赤十字社(以下、日赤と略)盛岡看護婦養成所を経て、1934年(昭和9年)に日赤青森県支部に勤務。1937年(昭和12年)に日中戦争が開戦、従軍看護婦として招集され、ほとんどの青春時代を戦場で過ごすこととなった。 1942年(昭和17年)、病院船上で結核と腸チフスに倒れ〔、広島陸軍病院(後の広島赤十字・原爆病院)に入院。博愛や人道主義で看護の道を選んだわけではなかった花田は、この入院中にある看護婦の献身的な看護に感銘を受け、保健看護への考えが大きく変化した。 チフスが治癒したことで、従軍看護婦に復帰。やがて、多くの兵士たちの死、自分たちのもとで治癒した兵士が再び死地へ赴くことの矛盾への苦悩から、戦争に対して強い怒りを抱き、「命を阻むものはすべて悪」との考えに至った〔。せめてもの戦争への抵抗として、病床の兵士たちの遺書を、検閲の目を盗んで遺族たちへ送り続けた。 翌1943年(昭和18年)、結核が完治していなかったために帰還。勉強の末、看護教員と保健婦の資格を取得〔。同年に開院した八戸市の八戸赤十字病院の看護婦養成所で婦長に就任し、養成所の生徒たちとともに寄宿舎での生活を送った〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「花田ミキ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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