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芳川顕正 : ミニ英和和英辞書
芳川顕正[よしかわ あきまさ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [かわ]
 【名詞】 1. river 2. stream 
顕正 : [けんしょう]
 (n) (gen) (Buddh) revealing or demonstrating the truth
: [ただし, せい, しょう]
 【名詞】 1. (logical) true 2. regular 

芳川顕正 : ウィキペディア日本語版
芳川顕正[よしかわ あきまさ]

芳川 顕正(よしかわ あきまさ、天保12年12月10日1842年1月21日) - 大正9年(1920年1月10日)は、日本官僚政治家阿波国麻植郡山川町(後の徳島県吉野川市)出身。父は原田民部伯爵
官僚時代は、藩閥の後ろ盾がなく苦労するが、銀行制度の確立に貢献。山縣有朋に認められて政界へ進出した。東京府知事(第8代)、貴族院議員司法大臣(第6代)、文部大臣(第6代、第7代、第11代)、内務大臣(第12・16・23代)、逓信大臣(第9・12代)、枢密院副議長(第4代)を務めた。
男子に恵まれず、四女の鎌子に曾禰荒助子爵の次男を婿養子をとって家を継がせた(芳川寛治)。
== 来歴 ==

徳島藩士から維新新政府に入る。明治5年(1872年)に大蔵省紙幣頭、同15年(1882年)に東京府知事に就任する。
山縣有朋の側近として知られ、明治23年(1890年)に第1次山縣内閣文部大臣に就任。在任中に教育勅語の発布に尽力した。明治24年(1891年)、第1次松方内閣でも文相に留任。退任後に宮中顧問官となった。
明治26年(1893年)、第2次伊藤内閣司法大臣に就任。続く第2次松方内閣でも留任した。また、この間の明治27年(1894年)に文部大臣を兼任。明治29年(1896年)には内務大臣も兼任した。
明治31年(1898年)、第1次大隈内閣で内務大臣に再び就任。次いで第2次山縣内閣逓信大臣に就任。この年子爵に叙爵されている。
明治34年(1901年)、第1次桂内閣で再び逓信大臣に就任。その後の改造で一旦政府を去るが、明治37年(1904年)には内務大臣として内閣に復帰。明治40年(1907年)、日本花柳病予防協会(現在の性の健康医学財団)設立に伴い初代会長に就任。同年9月21日、伯爵に陞爵したため貴族院子爵互選議員を失職する〔『官報』第7276号、明治40年9月28日。〕。大正元年(1912年)には枢密院副議長に就任するが、大正6年(1917年)に夫のある四女の鎌子がお抱え運転手と不倫の挙句に心中未遂事件(千葉心中)を起こすという醜聞で枢密院副議長を辞任せざるを得なくなっている。
この間、大正4年(1915年)には南洋協会(異文化コミュニケーション財団の前身)設立に参画し初代会頭となっている。
大正9年(1920年)、腎臓炎のため死去〔服部敏良『事典有名人の死亡診断 近代編』付録「近代有名人の死因一覧」(吉川弘文館、2010年)30頁〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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