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芹澤 健市(せりざわ けんいち、1969年11月21日 - )は、日本の男性元総合格闘家、格闘技レフェリー。静岡県沼津市出身。和術慧舟會駿河道場、和術慧舟會富士山道場代表。 DREAM、HERO'S、SRC、DEEP、JEWELS、Krush、全日本キックボクシング連盟、ONE FCなど多くの格闘技興行でレフェリー・ジャッジを務めている。 == 来歴 == 沼津学園高等学校(現・飛龍高等学校)入学後、部活動としてボクシングとレスリングを経験。その後、独学で総合格闘技を始めた。社会人として働きながら練習をしていたが、初めて出場した和術慧舟會のアマチュア大会でGCMコミュニケーション社長の久保豊喜と出会い、和術慧舟會沼津支部(和術慧舟會静岡支部)を設立することになった。 1999年、東日本アマチュア修斗選手権ミドル級(-76kg)に出場し、3位となった。 2001年1月21日、第2回タイタンファイトに出場し、3位となった。 2001年5月5日、初参戦となったパンクラスのネオブラッド・トーナメント予選で三崎和雄と対戦し、0-3の判定負けを喫した。 2003年2月16日、パンクラスでローラン・ファーブルと対戦し、チョークスリーパーで一本勝ち。試合後のリング上で「國奥選手、伊藤選手、俺の喧嘩を買ってくれ!」と國奥麒樹真、伊藤崇文に対戦をアピールした。この試合からリングネームを芹沢健市に変更し、さらに次戦からは芹澤健市に変更した。 2003年6月、膝靭帯を断裂し、医者からは「格闘技を続けることは不可能」と宣告されたものの、タイトルマッチ挑戦のチャンスを得た。 2003年11月30日、パンクラスウェルター級王者國奥麒樹真に挑戦し、0-3の判定負けを喫し王座獲得に失敗した。試合前から「納得できれば引退する」と宣言していた。 その後、レフェリーに転身。2005年10月2日には地元・沼津市に和術慧舟會駿河道場の常設道場「和術慧舟會 fighting GYM」を設立した。 2005年1月30日、第2回プロ・アマオープンキャッチレスリングトーナメント・80kg未満級に出場。準決勝で北岡悟にフロントチョークによる一本負けを喫し準優勝となった。 2006年2月26日、第4回プロ・アマオープンキャッチレスリングトーナメント・80kg未満級に出場。決勝で外山慎平にチョークスリーパーによる一本負けを喫した。 2007年6月24日、第5回プロ・アマオープンキャッチレスリングトーナメント・80kg未満級に出場。準決勝で山田崇太郎にフロントチョークによる一本負けを喫した。 2009年8月8日、5年8か月ぶりの総合格闘技の試合となったパンクラスでエリヤと対戦し、サッカーボールキックによるTKO負けを喫した。 2010年11月3日、パンクラスで荒牧拓と対戦し、腕ひしぎ十字固めで一本勝ち。復帰2戦目での白星となった。 2011年2月6日、DEEP初参戦となったDEEP SHIZUOKA IMPACT 2011で岡田充広と対戦し、2-0の判定勝ちを収めた。 2011年7月31日、パンクラスで寿丸と対戦し、0-3の判定負け。試合後に引退を表明した。 2012年1月29日、DEEP富士山祭り 〜芹沢健一引退興行〜を主催し、メインイベントで行なわれた引退エキシビジョンマッチで小路晃&光岡映二と対戦した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「芹澤健市」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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