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芹沢 鴨(せりざわ かも、芹澤鴨、? - 文久3年9月16日(1863年10月28日)もしくは9月18日(10月30日))は、幕末の水戸藩浪士、新選組(壬生浪士)の初代筆頭局長(頭取)。前名は下村嗣次と推定されている。諱は光幹。本姓は桓武平氏。 == 生涯 == === 出自の謎=== 出自、出生年には諸説ある。以前までは永倉新八の「常州水戸の郷士で真壁郡芹沢村の産」〔永倉新八『新選組顛末記』、新人物文庫 2009年5月 p84〕、「芹沢村浪人」〔永倉『浪士文久報国記事』〕という表現から、中世初期に興った常陸国行方郡芹沢村(現茨城県行方市芹沢)の豪族で、戦功により徳川家康の命によって行方郡富田村(現行方市富田)に知行百石を与えられ〔「芹澤系図」『系図綜覧 第二巻』、国書刊行会 1915年9月 p47〕、後に水戸藩上席郷士(士分)となった芹沢家の出身で、芹沢外記貞幹の三男であり、幼名は玄太、文政9年(1826年)生まれとする説が流布されていた〔芹澤 鴨(光幹) 新選組を創った男 〕。 しかし近年、芹沢外記の四男に文政7年(1824年)〔箱根紀千也「新選組芹澤鴨と新見錦と水戸藩浪士」『霊山歴史館紀要 22号』、霊山歴史館 2015年5月 p47〕もしくは文政9年(1826年)〔「 故 長谷川庄七(内務省二) 」『昭和大礼贈位書類第二冊』、国立公文書館〕出生で、新徴組に入り、後に天狗党に加わって元治元年(1864年)8月16日、那珂湊で戦死した長谷川庄七(諱は健久)の存在が確認された。鴨の生年は他に天保元年(1830年)、天保3年(1832年)とする説があり、外記の三男だとすれば計算が合わない。 また菩提寺の法眼寺過去帳に妻の名前が記された「芹沢玄太」は芹沢兵太の読み間違いであったことが判明し、この説は否定された〔「新選組芹澤鴨と新見錦と水戸藩浪士」 p48~49〕。兵太は外記の次男芹沢兵部成幹没後の慶応4年(1868年)時に芹沢家当主だった〔「慶応四年周辺村々騒動につき東下村波崎名主石橋彦兵衛願書」『茨城県史料 近世社会経済編Ⅲ』、茨城県 p578~582〕人物であり、文化12年(1815年)から文政6年(1823年)の間に生まれた外記の三男と考えられている。 島田魁の『英名録』には「又右(左)衛門子」とあり、同じく中世豪族の芹沢氏から分かれ水戸藩に仕えた家の出身ともいわれ、日置流雪荷派弓術の名人〔小野崎紀男編著『弓道人名大事典』、日本図書センター 2003年5月 p305〕芹沢又衛門以幹の子だとする説も存在している〔古賀茂作「芹沢鴨異聞」『新選組組長列伝』、新人物往来社 2002年7月 p200~205〕。同家は以幹の次男で、後を継いだ芹沢平蔵義幹(前名は鴨と同じ光幹)の子供たちである又衛門孝幹、助次郎豪幹、亀三郎らの三名が、文久3年(1863年)3月、伊藤俊輔に伴われて上京していた〔『水戸藩史料 下編全』、水戸徳川家 p284~285〕。 その後多賀郡松井村(現北茨城市中郷町松井)の神官下村祐の婿養子となり、下村嗣次(継次、嗣司、嗣治とも)を称したとされるが不明点も多い。少なくとも石河明善『明善先生日記』には「手綱領松井村神官次郎八の倅 次郎八百姓より神官御取立の者也」とあり下村祐(次郎八)と親子関係であるとされている〔『茨城新聞』2015年12月6日 14面「新撰組局長の芹沢鴨 出身地は北茨城か 幕末の日記新史料発見」〕。嗣次には常親という子供がいたと言われるも、下村家位牌には祐の子供と記されていた〔長久保片雲「芹沢鴨と北茨城市との接点」『耕人 第11号』、耕人社 2005年5月 p81~89〕。 武術は戸賀崎熊太郎に神道無念流剣術を学び(諸説あり)、免許皆伝を受け師範代を務めた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「芹沢鴨」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Serizawa Kamo 」があります。 スポンサード リンク
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