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苑田敏彦 : ミニ英和和英辞書
苑田敏彦[えん, その]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [えん, その]
  1. (n,n-suf) garden (esp. man-made) 2. park 3. plantation
: [た]
 【名詞】 1. rice field 

苑田敏彦 ( リダイレクト:苑田聡彦 ) : ウィキペディア日本語版
苑田聡彦[そのだ としひこ]

苑田 聡彦(そのだ としひこ、1945年2月23日 - )は、福岡県出身の元プロ野球選手外野手内野手)。
== 来歴・人物 ==
三池工高時代は九州一のスラッガーとして名をはせており「中西二世」とも呼ばれ期待されていた〔カープ50年 夢を追って、中国新聞社、1999年11月、P83〕。1964年にプロ入りし、地元の西鉄ライオンズなどが獲得にのり出したが、苑田が選んだのは一番条件の低かった広島カープだった〔。広島入団の決め手となったのは担当だった久野久夫スカウトの人柄であり、「久野さんの熱心さにひかれた。お金はどうでもよかった」と語っている〔。
173センチという小柄な体でプレーし、技術面では問題なかったが精神面で弱く、1軍では結果を残せなかった〔。4年目となる1967年オープン戦で好調も開幕2軍を命じられ悔しさを味わったが、その悔しさが苑田を変え、2ヵ月後には1軍へ戻ると6月に山本一義の負傷欠場でチャンスを掴み、打撃が開花〔。この年は109試合に出場し、打率.266と自己最高の成績を残した〔。ようやく定位置も確保できると思われた1969年山本浩二の入団で外野から内野へコンバートされた〔。当初は外野で山本と競い合いたい気持ちが強く、山本が入団してきた年の契約で内野コンバート前提の契約が盛り込まれていたので春のキャンプに入ってもなかなかサインをしなかった。これ以降は打席にもあまり立てず、守備固めの出場が多くなった〔。
しかし1972年には三塁手二塁手としての出場機会が増え、45試合に先発出場。1973年からは上垣内誠と併用され、三塁手として起用される。翌1974年は、規定打席には届かなかったが打率.300の好記録を残した。1975年には衣笠祥雄が三塁手に回り行き場を失ったが、5月に大下剛史が負傷欠場し、代わりに二塁手、一番打者として10試合で40打数17安打と大当たりする〔。5月17日大洋ホエールズ戦では先頭打者本塁打を放ち、チームを首位へと浮上させた〔。その後も三村敏之シェーンの代役として出場し、スーパーサブとしてこの年の球団の初優勝に貢献し、自身も忘れられないシーズンとなった〔。阪急ブレーブスとの日本シリーズでも最終戦で代打として出場を果たしている。
1977年に現役引退し、スカウトとして球団に残り、東日本を中心に活動〔。スカウトとしてのスタートは球団から唐突に「東京でマンション一部屋探しとけ」の指令からだった。ほとんど知らなかった東日本での活動に当初はかなり苦労したらしい。江藤智金本知憲嶋重宣黒田博樹大竹寛永川勝浩らを入団させた。2006年からスカウト部長に就任、その後スカウト統括部長に就任した〔週刊ベースボール2014年3月24日号 P20〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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