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苟晞[こう き] 苟 晞(こう き、? - 311年)は、中国西晋の武将、政治家。字は道将。河内郡山陽県の人。西晋を支えるために、中国各地で蜂起した異民族の鎮圧に功績を挙げた。 『晋書』によると、若くして司隸部従事となり、宗室の東海王司馬越が侍中になると招かれて通事令史となり、以後陽平太守、尚書右丞など政治・軍事の要職を歴任し、西晋時代及び八王の乱を通して活躍、最終的には兗州刺史となった。 307年、匈奴や鮮卑などの異民族が侵入した永嘉の乱により五胡十六国時代が始まると、州刺史として兗州で蜂起した異民族・汲桑の鎮圧に従事し、幾度か破って名を馳せるが、政治面では当時政界の中央にいた司馬越と対立、彼を弾劾したり懐帝から司馬越誅殺の密勅を受けたりなど微妙な立場になる。 その後も兗州で数度敗北したり、匈奴や鮮卑などの異民族と叛徒を相手に勝利を重ねた。311年正月に、懐帝の密命を受けて専横を振るった東海王司馬越を討伐したが、かえって司馬越に敗れた。その後、蒙城で前趙の武将石勒(後趙の高祖)に敗戦し、捕らえられた。一時は司馬に取り立てられるが、1ヶ月あまりで石勒の気が変わり、苟晞は危険分子として殺害された。 当時の評価では、彼は貧窮の家より身を起こし、王朝に対しては忠実、軍を率いて戦えば優秀であったが、法の運用面では厳格が過ぎ、公平ではあったものの彼の周囲では処刑される者が続出し、大勢の恨みを買ったという。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「苟晞」の詳細全文を読む
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