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若ノ海 周治(わかのうみ しゅうじ、1931年2月2日 - 1999年5月3日)は秋田県南秋田郡井川町出身で花籠部屋に(入門時は二所ノ関部屋、その後師匠の独立により転籍)所属していた大相撲力士。最高位は東小結。本名は鎌田 周治。現役時代の体格は169cm、114kg。得意技は左四つ、掛け投げ、内掛け、出し投げ、渡し込み。引退後は年寄として後進の指導につくした。 == 来歴 == 1949年10月場所、二所ノ関部屋から初土俵をふむ。大ノ海久光の内弟子であったので、大ノ海が引退して芝田山部屋(のちに花籠部屋に名称変更する)を興すと、兄弟子の若乃花とともに移籍した。移籍したばかりの1952年9月場所には13勝2敗の好成績で幕下優勝をかざり、部屋の出発に花を添えた。 若乃花の猛稽古の相手をして実力を増し、1955年3月場所に新入幕、11勝4敗の好成績でいきなり敢闘賞を受賞すると、翌場所も11勝4敗の好成績で2場所連続で敢闘賞を受賞し、初めて上位に進出した1955年9月場所では4勝11敗と大きく負け越したが、横綱・吉葉山を初顔で破って初金星を挙げている。その後も幕内上位に定着し、特に大関・松登には圧倒的に強く、通算で9勝3敗と大きく勝ち越しており、松登が大関にいた頃は1957年11月場所の一度の対戦のみだが下手捻りで勝利しており、松登が大関を陥落した後は顔が合う度にカモにしていた。また横綱・朝潮にも4勝8敗、横綱・鏡里には2勝3敗と健闘している。170cmにも満たない小兵力士であったが、懐に深く入っての掛け投げを得意とした。幕内上位で12勝3敗の好成績を挙げたり、小結で勝ち越していながら最高位は小結にとどまったが、長く幕内で活躍し、花籠部屋のその後の興隆に貢献した。1963年11月場所限りで引退し、年寄・音羽山として後進の指導につとめ、停年まで日本相撲協会に在籍した。なお、1957年1月場所から1958年3月場所まで荒岩を名乗っていた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「若ノ海周治」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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