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若ノ花勝治 : ミニ英和和英辞書
若ノ花勝治[かつ]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [はな]
 【名詞】 1. flower 2. petal 

若ノ花勝治 ( リダイレクト:若乃花幹士 (初代) ) : ウィキペディア日本語版
若乃花幹士 (初代)[わかのはな かんじ]

初代 若乃花 幹士(わかのはな かんじ、本名:花田 勝治(はなだ かつじ)、1928年(昭和3年)3月16日 - 2010年(平成22年)9月1日)は、青森県弘前市青女子(あおなご)出身で、入門当時は二所ノ関部屋1953年花籠部屋の独立とともに移籍)に所属した大相撲力士、第45代横綱。身長179cm、体重107kg。血液型はB型。弘前市名誉市民。土俵の鬼と呼ばれた。戦後最軽量横綱である。〔歴代横綱一覧 〕(歴代史上最軽量は栃木山の103kg)
引退後二子山部屋を創設し、弟である大関初代貴ノ花(のち藤島二子山)、横綱・2代若乃花(のち間垣)、横綱・隆の里(のち鳴戸)、大関・若嶋津(のち松ヶ根二所ノ関)らを育て、日本相撲協会の理事長もつとめた。
第65代横綱・貴乃花一代年寄・貴乃花親方)と第66代横綱・3代若乃花(のち藤島、現実業家タレント)の二人は甥にあたる。 愛人関係にあった韓国人女性との間の息子が藤島部屋に入門し、1989年3月初土俵。若剛志の四股名で幕下まで昇進した(1997年1月に引退)〔韓国名・朴祐賛。1972年7月誕生、韓国・ソウル生まれ。1985年12月に養子縁組を行い13歳で日本へ移住。引退後の2002年5月に父・初代若乃花から認知してもらい、花田河成を名乗ると同時に帰化。その後、起業して日韓を往来している。自著『花田家の隠し子―アボジと呼ばせて』(主婦と生活社)では、移住してから民族差別を受けたことで素行が荒れた結果として高校進学が困難になったため藤島部屋に身を寄せ、大相撲時代には従兄にあたる3代若乃花の付き人を務めていたことが語られている。暴露の内容としては嫡外子、そして韓国人としての境遇を強いた父・初代若乃花への恨みがつづられており、自身が引退したと同時に初代若乃花が若剛志の母への仕送りを打ち切ったことが認知を求める動機であったとも明かされている。他に、3代若が遺産を相続放棄した背景には初代若が入れ知恵をしたという説も唱えている。叔父であり師匠でもあった藤島や当時女将を務めていた藤田紀子への恩義も語られている。〕。 
== 略歴 ==

=== 誕生から横綱昇進まで ===
青森のリンゴ農家に、10人兄弟の長男(上に姉が1人いた)として生まれた。しかし、1934年室戸台風のため作物が全滅、一家は破産状態で北海道室蘭に移住した。沖仲仕などの力仕事を行い、戦争で傷痍軍人になった父に代わって家計を支えていた。普通の男が70~110kgの鉄鉱石や石炭を担ぐところを国民学校を卒業したばかりの花田は既に150kgもかついで何度も往復し、ついに仕事で担ぐ荷物の重さが200kgに達するなど後に相撲で発揮する身体能力の片鱗を見せていた。大人の倍は稼いだ一方で、鉱石の入っているタンクに落ちて「死んで行くのはこういう気持ちか」と思うこともあり、3000ボルトの電圧に触れて頭をハンマーで殴られたように吹っ飛ばされたこともあるなど、入門前から何度も生死の境をさまよう経験をしていた〔荷役で鍛えた下半身 土俵の鬼、「栃若時代」築く 元横綱初代若乃花が死去(1/2ページ) 日本経済新聞 2010/9/1 22:05〕。
1946年大関佐賀ノ花二所ノ関一門の巡業で催された相撲大会に飛び入りで参加、本職の力士を数名倒してみせた。当時の花田は上背はあったものの体重は70kgぐらいと推定され、本職の力士を倒したとはいえ自分よりはるかに体格の良い人間にはかなわず、そのころの花田を草相撲で倒した経験のある人物の中には、復員してきたばかりでのちにJRA顕彰馬マルゼンスキーを生産し、元スピードスケート選手・参議院議員橋本聖子の実父でもある橋本善吉もいた〔「私が軍隊から戻って一番元気なときだよ。若乃花は上背はあったがせいぜい70キロ台、こっちら22~23歳で100キロ近くあって鍛えに鍛えていたからね。17~18歳の細っこいアンちゃんじゃ勝てっこないよ」(横尾一彦「マルゼンスキー(1) やっぱりダービーを走らせたかった」『優駿』1994年8月号、日本中央競馬会、1994年、p.77)〕。
とはいえ、本職の力士を倒したことが大ノ海(のちの師匠・花籠)の目に留まり、働き手を失いたくない父親の反対を押し切って入門。条件は「3年で関取になれなければ帰る」というものだったという。「若ノ花」の四股名は大ノ海の若い時の名を譲られたもの。このため後年、「若ノ花・若乃花は全部で何人か」という問題が取りざたされた。もちろん、彼を初代とする数え方が一般的ではあるが、自身は「師匠が初代、自分は二代目」と数えていたらしい。
入門後は「二所一門の猛稽古」によって力を付けた。当時の部屋の幕内には、神風、力道山、佐賀ノ花、琴錦など分家独立を念頭に置いて内弟子を厳しく鍛えていた者が多く、稽古は本場所さながらの様子を呈していた。最も彼をしごいたのは後にプロレス入りする力道山で、これは成績不振に陥った場所後に景気付けに兄弟子の琴ヶ濱と蕎麦を食べに行こうとしたところを力道山に見付かり、夜逃げと勘違いされて目を付けられたからであるという〔ベースボールマガジン社『大相撲戦後70年史』18ページ〕。ある時、あまりの猛稽古で土俵に這ったまま立てなくなったが、それでも容赦がなく、このままでは殺されると力道山の脛にかみ付き、廻し姿のまま部屋から脱走して近くの隅田川に飛び込んだという逸話がある。一説には、のちのプロレスラー力道山のトレードマークである黒タイツは、この時の古傷を隠すためだったともいう。本人も力道山からの援助・教えは身にしみたと述懐している。
後に大関となる琴ヶ濱との稽古も凄まじいものだったという。当時は高砂と二所ノ関で合同の巡業を打つことが多かったので、東富士にも可愛がられた。鏡里もまた若ノ花によく稽古をつけていた。
1946年11月場所の初土俵から各段優勝に近い成績で、1949年5月場所には十両に昇進。家族と約束した3年より約半年早かった。この間、初めて番付に載った1947年5月場所で一度だけ負け越したが(2勝3敗)、その後は幕内上位に進出するまで負け越すことはなかった。
下半身の強さ、特に膝のバネに独特のものがあり、「異能力士」とあだ名された。脚の筋肉の付き方は見事であり、これは室蘭時代の舟板の上での労役によるところが大きいとされる。その必殺技として名高い「呼び戻し」を実際に食った体験者である鳴門海などが、「腕力でなく、下半身からの力で投げ捨てられる感じ」と証言している。俵に足がかかってもそれ以上は後ろに下がらない足腰を指して「かかとに目がある」と評されたこともある〔。
この「異能力士」の他に、若き日は「オオカミ」のあだ名があった。一説に力道山の脛に咬み付いた際の様子がオオカミのようだったからとも言う。後に「ウルフ」のあだ名を持つ千代の富士が出世する際にこのあだ名がクローズアップされた。角界には“動物のあだ名が付くと出世する”という言い伝えがあるが、若ノ花はその言い伝えを証明するかのように番付を上げていった。
1953年、師匠の大ノ海が引退と共に二所ノ関部屋から独立し、花籠部屋(独立当初は芝田山部屋)を創設するとそれに従うが、当初は小部屋ゆえの苦労が絶えなかった。巡業も引き受け先が見付からず、辺鄙な土地に出かけて部屋の若い衆相手に胸を貸す稽古を延々と続けたという。
1955年9月場所、西関脇で10勝4敗1分。この1引分は横綱千代の山水入り取り直しの計17分15秒に及ぶ前代未聞の大相撲の末だった。この相撲を評価され、場所後に関脇松登と共に大関に昇進する〔。昇進前3場所の通算勝ち星は28勝(引分が2回あるので事実上29に等しいが)なので、現在の目安で言えば甘い昇進だったことになる。当人も大関になれるとは思いもよらず、番付編成会議の朝、家族とともに旅行に出かけようとしたところを、新聞記者にあわてて呼び止められたという逸話が残る。慌てて伝達式に駆けつけたことと当時昇進伝達式の口上が定型化していなかったことが重なって大関昇進伝達式では「ありがたくお受けします」とのみ発して推挙状を受けたという〔昭和の大関昇進口上は短め…輪島は“ド忘れ” Sponichi Annex 2011年12月1日 06:00〕。しかし、新大関の1956年1月場所は他の2大関が負け越す中、優勝した横綱鏡里に1勝差の13勝2敗、大関推挙が失敗ではなかったことを自ら証明してみせた(ちなみに同時に大関に昇進した松登は後に3場所連続負け越しで大関を陥落することになるが、大関陥落決定となる黒星を付けたのは若乃花である)。
翌3月場所場所も12勝3敗で優勝決定戦に出場。他の出場者は関脇朝汐と東前頭15枚目若羽黒で、これは昭和生まれで最初の幕内優勝を争う決定戦ともなった〔昭和生まれの決定戦出場は同年1月場所での鶴ヶ嶺が第1号。横綱鏡里に破れ優勝同点。〕。若ノ花は若羽黒には勝ったが朝汐に破れ、朝汐がそのまま若羽黒にも連勝して優勝を決めた。次の5月場所も12勝3敗で前頭9枚目・大晃とのこれも昭和生まれ同士となる決定戦を制して初優勝。朝汐に遅れること一場所で二人目の昭和生まれの幕内優勝力士になった。
翌9月場所に横綱をかけたが、場所前に長男がちゃんこ鍋をひっくり返して火傷で亡くなるという悲運に見舞われる。稽古どころではなく本場所出場も危ぶまれたが出場を強行、愛児の名を記した数珠をさげて場所入りし、支度部屋でほとんど一言も発しないその姿は鬼気迫るものであった。水入りの苦戦を強いられることの多かった前頭5枚目出羽錦をあっという間に寄り切るなど初日から12連勝、連続優勝と横綱は確実、あるいは全勝優勝なるかと思われたが、扁桃腺炎を発症、高熱に襲われ13日目を休場、千秋楽には出場の意欲を見せ横綱栃錦と割が組まれたが当日病状が悪化してやむなく休み不戦敗、結局12勝2敗1休(2敗はいずれも不戦敗〔実弟貴ノ花、甥の貴乃花も1場所2度の不戦敗を記録したことがある。〕)に終わる。綱取りは夢と消えたが、皮肉にもこの悲劇が「数珠をさげた名力士」として若ノ花の人気をさらに高めた。翌1957年には日活が映画『若ノ花物語・土俵の鬼』を制作、若ノ花自身も出演した。
同年9月場所より「若乃花」に改名。画数占いですすめてくれる人があったのと、愛児の一周忌を機に心機一転をはかるためと言われている。
1957年11月場所は12勝3敗の優勝次点で、翌1958年1月場所は13勝2敗で2回目の優勝を果たし、場所後45代横綱に推挙される。ちょうど昇進場所となる1月に「2場所連続優勝、もしくはそれに準ずる成績」という横綱昇進の内規を制定した横綱審議委員会の一部委員からは反対も出たが、相撲協会がこれを押し切った形だった。昭和生まれで最初、かつ戦後に初土俵を踏んだ最初の横綱である〔のちに甥である3代若乃花が昭和に初土俵を踏んだ最後の横綱となる。〕。
横綱は他の力士と違って降格を許されない地位であり、負け越せば引退以外に道はないため、自分が養うべき家族のことを考えて、推挙を受けるべきかどうか、かなり悩んだという(大関以下の力士は負け越してもその時の実力に見合った番付で比較的長く現役を続けることができるが、それは横綱には許されず、横綱が負け越せば引退のみである)。
若乃花は横綱推挙を受けることにしたが、問題があった。横綱は自分専用の三ツ揃え化粧廻しが新調されるまでは一門の先輩横綱から借りるのが通例だが、二所ノ関一門からは玉錦以来実に20年ぶりの横綱、しかも玉錦の三つ揃いの化粧廻しは戦時中の空襲で焼けてしまって使用不能であるばかりか、困ったことに土俵入りを指導する先輩横綱も一門にはいなかった。横綱昇進に際してどうしたら良いか判らずにいた若乃花を助けたのは、理事長の時津風〔厳密には時津風の命を受けて12代立田川が指導を行った形である。角界の伝統により、一門に横綱土俵入りを指導する協会在籍の横綱経験者がいないために一門の行司が横綱土俵入りを指導する場合もある。〕とその弟子鏡里だった。事情を知った時津風は自ら土俵入りの指導を引き受けてくれたばかりか、戦災で唯一焼けずに完全な形で残っていた自身の三ツ揃えの化粧廻しを貸し出すという計らいをしてくれた〔この時の横綱土俵入りの指導が、後に 2代若乃花貴乃花と二所ノ関一門内を伝わり、さらに2014年3月場所後の鶴竜に伝えられたことで、元の時津風一門に還元された。鶴竜の際も一門内では柏戸以来45年ぶりの横綱誕生だったため、指導する先輩横綱がおらず、貴乃花が引き受けることになったためである。〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「若乃花幹士 (初代)」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Wakanohana Kanji I 」があります。




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