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ガグロエフ・ソスラン・アレクサンドルヴィッチ (, Soslan Aleksandrovich Gagloev, 1988年7月8日 - )は、ロシア連邦北オセチア共和国ウラジカフカス出身で間垣部屋所属の元大相撲力士。アマチュアアメフト選手。大相撲力士時代の四股名は、若ノ鵬 寿則(わかのほう としのり)。身長195cm、体重162kg。得意は右四つ・寄り。最高位は西前頭筆頭(2008年7月場所)、血液型はO型、愛称はソス。従兄弟は元関脇・阿覧。四股名は露鵬の先代師匠にあたる大鵬が由来で、下の名前の“寿則”は師匠の現役時代の四股名の一つである“若三杉 壽人”(新字体の“寿”)と本名“下山 勝則”から一文字ずつ取った(下の名前の命名方式は琴欧洲と同じ)。恵まれた体格と若年での出世から将来性を評価されていたが相撲の基本から外れた破天荒な取り口と粗暴な言動故に批判も多く受け、前相撲から三役寸前まで昇進しながら最終的には刑事事件を直因としてわずか3年半の土俵生活に幕を閉じた。 == 人物 == 露鵬、白露山兄弟と同じロシア・北オセチア共和国出身で、露鵬の父親にレスリングを習い、ロシア国内のジュニア王者になる。その能力を露鵬が高く評価し、彼の誘いに応じて2004年(平成16年)9月に来日し、大嶽部屋に住み込みで日本の相撲部屋の生活を経験する。外国人は1部屋に1人までの入門制限のため同じ二所ノ関一門に所属する間垣部屋に入門し、2005年(平成17年)3月場所で初土俵を踏んだ。同期生には高安、大道、勢、旭日松、飛翔富士らがいる。〔いずれも若ノ鵬が解雇されてからの関取昇進。〕 2005年9月場所は7戦全勝で序二段優勝、翌2006年(平成18年)1月場所では幕下で6勝1敗、7人による優勝決定戦に進出し、決勝で把瑠都に敗れたものの、その高い能力の一端を示した。その後も勝ち越しを続け、同年11月場所では東幕下筆頭で4勝3敗と勝ち越し、初土俵から負け越しなし、所要11場所での十両昇進を果たした。18歳5カ月での十両昇進は史上8位タイの年少記録で、外国出身力士では白鵬の18歳9カ月を更新し最年少である。しかし本人は、「17歳で上がりたかった」と悔しがった。 関取として初めて土俵に上がった2007年の1月場所は、相撲の型がまだ固まっていないこともあって苦労し、5勝10敗とふるわず初の負け越しを経験した。翌3月場所は東幕下2枚目で5勝2敗と好成績を残し、西2枚目で同成績だった境澤を退け1場所で再十両を果たした。西2枚目から東3枚目だったことが大きな決め手となった。その後も十両で勝ち越しを続け、2007年9月場所には十両筆頭で10勝5敗と大勝ち。11月場所で新入幕を果たした。19歳3ヶ月での新入幕は史上6位タイの年少記録だが、外国出身力士では白鵬(19歳1ヶ月)の後塵を拝している。 欧州出身の力士が20歳前後で入門する例が多い中、16歳で初土俵を踏んだ。四股の所作にぎこちなさがあったように、下半身にやや脆さがあり、取り口も未熟で課題を抱えていたが、素質は申し分ない逸材とされた。しかし立ち合いの変化が多く、親方をはじめ現役力士からも「恵まれた体格があるのに勿体無い」と苦言を呈されていた。 2007年1月場所では5勝中3勝が立ち合いの変化、1勝が不戦勝であった。特に相手の背中に乗りかかるような体勢ではたき込む動作は「跳び箱」と呼ばれ、新聞など各メディアで格好のネタにされた。ただしこれは悪い癖と認めており、2008年1月場所で岩木山に変化(跳び箱)を読まれ敗れた事を機に「もうやらない」と語っている。しかし同年5月場所14日目には琴奨菊に同じような八艘飛びで白星を挙げている。 また2008年1月場所9日目の市原戦では右手を握ったまま張り差しを繰り出し、市原の顔に拳を叩き込んだ(取組は寄り切りで若ノ鵬が勝利)。禁手反則の「握り拳(こぶし)で殴ること」に触れる恐れがあったが、審判長の三保ヶ関は「手首が返っていない」として不問にした。 2008年5月場所5日目の鶴竜戦、鶴竜の変化にバランスを崩し手を付いたにもかかわらず相撲の流れが若ノ鵬にあったために行司、審判は見逃し、取組は続行され寄り切りで勝利した。NHKの大相撲中継には手をついた場面がはっきりと捉えられており、アナウンサーも誤審と明言。相撲協会には抗議電話が殺到した。この場所は最終的に8勝7敗と勝ち越したが、もしこれが見逃されていなければ負け越しだった。 また、8日目には安馬に豪快なうっちゃりで敗れた後、悔しさの余り部屋の風呂場の壁を叩き割り風呂桶を壊すなどしたため、厳重注意を受け、間垣親方(元横綱若乃花)は北の湖理事長に謝罪した。本人も謝罪したが、その一方で「負けたら悔しい」「皿とか壊したくなる」などとの発言も見られた。また「安馬が朝青龍に見えた」などと横綱を呼び捨てにするなどの発言もあった。 2008年7月場所は上位陣に歯が立たず、8連敗で入幕後初の負け越しとなったが、9日目に連敗を止めた。奇しくも相手は先場所敗北した安馬、それも立合いにジャンプしたところ、結果的にこれが相手のもろ手突きを止めることになり押しつぶしたという形であった。 2008年8月19日に大麻所持で検挙され、相撲協会から解雇された。そのため、2008年9月場所の東前頭8枚目は空位となり、番付け発表翌日には検挙に伴う大麻の簡易検査を実施した(この検査で同じロシア出身の露鵬と白露山が解雇)。この解雇について、角界復帰を望んで協会を相手取り処分撤回を求める仮処分申請および訴訟を東京地方裁判所に起こした。仮処分申請は2008年10月30日に却下された。若ノ鵬は2009年1月24日までに訴訟を取り下げて解雇が確定し〔元若ノ鵬が訴え取り下げ=地位確認訴訟-東京地裁 時事通信 2009年1月30日〕、1月29日に退職金に当たる約580万円の養老金が支払われた。〔元若ノ鵬への養老金支払いを報告/大相撲 - スポーツ - SANSPO.COM 2009年1月30日〕 2009年2月1日に東京都内のホテルで個人的に断髪式を行ったが、角界関係者は誰も参加しなかった〔「大相撲:元若ノ鵬・大麻所持 都内で「断髪式」」 - 毎日新聞2009年2月2日 東京朝刊〕その後、2月13日ロシアに帰国した。〔「元若ノ鵬が母国ロシアへ帰国」日刊スポーツ2009年2月14日紙面〕 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「若ノ鵬寿則」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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