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若乃島 史也(わかのしま ふみや、1984年9月28日 - )は、鹿児島県大島郡龍郷町出身で芝田山部屋(入門時は放駒部屋)所属の現役大相撲力士。本名は再田 史也(さいた ふみや)。身長179cm、体重142kg、最高位は西十両7枚目(2015年9月場所)。好物はレバ刺し。〔若乃島 史也 芝田山部屋公式ホームページ〕 == 来歴 == 6人兄弟の末っ子(兄3人、姉2人)。里山、慶天海と同様に奄美大島生まれの男子らしく物心がついた頃には既に相撲を始めており、遊び程度で野球やサッカーなどにも親しんでいた。しかし笠利町(現・奄美市)立赤木南中学校に1年次途中で転校してからは相撲一本に絞り、中学の部活での稽古に加えて22歳年上で近畿大学相撲部OBの兄とのマンツーマン稽古を行う生活を送った。放課後から夜8時過ぎまで続く稽古は本人曰く「半端じゃなく厳しかった」そうである。3年時には全国中学校相撲選手権大会団体戦優勝の実績を残し、複数の相撲部屋から勧誘が来た。当初は九高へ相撲による推薦入学がほぼ決まっており大相撲入りの意思はなかった。しかし、何度も自身の元へ足を運んだ放駒の熱心な勧誘に心動き、「高校に行っても親に迷惑を掛けるだけ。親に楽をさせたい。」〔『相撲』2012年3月号74頁〕と考えた再田は出身地である笠利町の中学校を卒業すると同時に放駒部屋に入門、2000年3月場所で初土俵を踏んだ。相撲の魅力ばかりを説くのではなく厳しさを強調されたことに却って誠実さを感じて心打たれたという。〔「稽古に精進 見守ってください」 若乃島史也さん(29)十両昇進 天国の親方に報告 MSN産経ニュース 2014.5.29 09:03 〕前相撲は2番出世であった。同期には龍皇、寶智山、飛天龍らがいる。初めて番付に名前が載った同年5月場所では無傷の5連勝とするも、12日目の6番相撲で寶智山に押し出しで敗れ、初黒星を喫した。翌場所からはしばらく序二段で一進一退を繰り返していたが、2001年7月場所で三段目に初めて昇格。当初は相撲部屋での生活を厳しく感じ、番付をジワジワと上げても出世欲が無く稽古に本気で打ち込んでいるとは言い難く常に「今日こそは辞めよう」とばかり考えていた。しかし入門から1年半が経過した2001年7月場所中、部屋後援者が再田本人とは知らず「場所中なので再田君には内緒で」と父の訃報を伝えてしまったことから相撲に対して真剣に頑張らなければと意識が変わっていった。しかし壁に当たり、1年間は三段目と序二段を行き来する生活が続く。2002年7月場所からは三段目に定着し、三段目上位も経験していたが、2004年5月場所前の稽古で負傷し、同場所は1番相撲から休場した。3日目の2番相撲から出場に踏み切るも、7日目(4番相撲)の挑持丸(飛天龍)戦に押し倒しで敗れた際に悪化させ、5番相撲から再び休場。その後2場所全休し、復帰した同年11月場所では序二段の下位に落ちていた。 復帰場所から3場所連続で6勝1敗の好成績を上げ続け、2005年5月場所では初めての幕下。2番相撲から3連敗を喫して一時は1勝3敗と後が無い星取になったが、5番相撲からの3連勝で勝ち越しを極め、翌場所は幕下中位に番付を上げる。しかしその後は幕下中位から三段目上位の壁にぶつかり、一進一退が続いた。そんな中、2008年3月場所からはそれまで本名をそのまま使用していた四股名を若乃島と改めている。2010年9月場所からは幕下に定着し(奇しくも、この場所前に師匠の放駒親方(元大関・魁傑)が日本相撲協会第11代理事長に就任している)、2011年9月場所からは幕下上位の十両昇進が見える番付に定着している。2012年3月場所は西幕下筆頭まで最高位を更新するも4番相撲で敢え無く負け越しが確定してしまった。それでも7番相撲まで善戦して3勝4敗で場所を終えた。2013年1月場所後、師匠の停年(定年)退職を控えて放駒部屋が閉鎖されたため、芝田山部屋に移籍した。放駒が定年を迎えた際に自身も引退を決意したが「最後まであきらめるな」と叱責されて続投の決意を固めたという。〔故放駒前理事長の愛弟子たち号泣 DAILY SPORTS ONLINE 2014年5月20日〕その年の4月に母親の病が判明したことから、なんとか生きているうちに十両昇進を報告したいと努力するようになったが、報告は間に合わず、母親は2014年1月に没した。〔ベースボール・マガジン社刊 『相撲』 2014年7月号(名古屋場所展望号) 28頁〕その直後の2014年1月場所は西幕下7枚目の地位で土俵に上がり、勝ち越して翌3月場所は西幕下4枚目となり、ここでは7番相撲で勝ち越す形で4勝3敗の成績を収めた。2014年5月場所には中日に入門時の師匠であった放駒が急死するという悲劇に見舞われたが、西幕下筆頭で5勝2敗の成績を残し、場所後の番付編成会議で十両昇進が決定した。新十両まで所要85場所は、史上4位のスロー出世記録〔新十両に若乃島ら=大相撲・番付編成会議 時事ドットコム 2014年5月28日〕。場所後、師匠の芝田山は放駒からの預かり弟子の昇進に対して「最近の相撲界は年齢層が上がってきている。弟子の若乃島が、今場所29歳で新十両昇進したけれど、30歳前なんて、まだまだこれからじゃないかなと思える。私たちの時代とは違っていますよ」と感想を口にした。〔いぶし銀の魅力あふれる、ベテランたちの7月場所。~アラフォー力士、名古屋で旋風を~ Number Web 2014/07/07 10:00〕〔芝田山こと大乃国は怪我や病気の多発により歴代横綱の中で2位となる28歳9ヶ月での若年引退を余儀なくされている(廃業・現役死を除く)。〕 新十両で迎えた2014年7月場所では緊張していた〔『相撲』2015年6月号73ページ〕ためか初日から5連敗など不調で、12日目に早々と負け越しが決まり、4勝11敗と大きく負け越し、翌場所は幕下に陥落した。「折角もらった化粧廻しを1場所しか使うのは申し訳ない」と奮起して2015年5月場所で再十両を果たすと、今度は気持ちに余裕を持って場所に挑み、千秋楽に十両で初めての勝ち越しを決めた。〔 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「若乃島史也」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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