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若二瀬 唯之(わかふたせ ただゆき、1942年2月20日-1997年5月20日)は、愛知県幡豆郡一色町(現役当時、現・同県西尾市)出身で、朝日山部屋(入門時は大鳴戸部屋)に所属した大相撲力士。本名は戸嶋 忠輝(としま ただてる)。現役時代の体格は176cm、150kg。得意手は右四つ、寄り、押し。最高位は西小結(1968年11月場所・1969年7月場所)。 == 来歴・人物 == 地元の佐久島中学校を卒業後、名古屋市内の海産問屋に勤務していたが、18歳の時に上京。大鳴戸部屋へ入門し、1960年9月場所で初土俵を踏んだ。 当初の四股名は、本名と同じ「戸嶋」。 その後、1963年5月場所後に朝日山(元関脇・高津山)が死去し、師匠の大鳴戸(元前頭2・二瀬山)が朝日山を継承。朝日山部屋と大鳴戸部屋が合併したことに伴い、朝日山部屋所属となった。以後は順調に出世し、1964年3月場所で十両昇進、1966年3月場所で入幕を果たした。 以降は暫く幕内と十両を往復したが、3度目の入幕から、幕内に定着。当初はぶちかまして一気に押す取り口だったが、年を経るとともに四つ相撲に変わった。 東前頭4枚目の地位で迎えた1968年7月場所では、初日に横綱・柏戸を押し出しで破り生涯唯一の金星を獲得。同場所では11勝4敗と大きく勝ち越し、生涯唯一の三賞となる殊勲賞を受賞している。 翌場所、初めて三役(小結)に昇進し、8勝7敗と勝ち越してその地位を守った。 その後は2場所小結を務めたが、2場所とも大敗し、関脇への昇進は果たせなかった。 1972年1月場所では10勝5敗と好成績を挙げたが、同場所は優勝争いが大混戦となり14日目を終えた時点で4敗の前頭5枚目・栃東ら3人がトップ、千秋楽の取組で4敗の誰かが勝つまでは5敗の力士にも幕内優勝の可能性があるというので支度部屋で待機することになった。だが、後半戦になって2人が続けて敗れたため帰れず待たされた。 結局、結びの一番で大関・清國を降した栃東が11勝4敗で単独優勝を決め、幕内3番目で取組を行いながら結びまで待たされた挙句三賞も何も無しという結果にはカンカンに怒っていた。 序ノ口に付いた1960年11月場所から、現役最後の1975年3月場所まで一度も休まず、1137番連続出場という記録を残している。 引退後は、年寄・浦風(後、同・北陣)を襲名して朝日山部屋付きの親方として師匠(元・二瀬山)の片腕となり、後進の指導に努めた。 そして同年10月、師匠の急死により、名門・朝日山を継承することとなった。しかしこれに際し、先代未亡人と話がこじれてしまった。また朝日山を継承する予定となっていた弟弟子の琉王(最高位・前頭筆頭)とも対立し、1976年9月場所終了後に部屋のトンガ王国出身力士6人が帰国する、いわゆる“トンガ騒動”を巻き起こした。 結局トンガ出身の6人は、11月場所前に、廃業に追い込まれてしまった。また、この騒動に巻き込まれた琉王も、同場所後に廃業した。 この騒動は国会でも取り上げられ、日本相撲協会はトンガ王国に事情説明に行き、国王の了解を得た。これにより、朝日山親方は監督不行き届きとして協会から減給10%6ヵ月の処分を受けた。 「赤鬼」や「青鬼」、「桃太郎(後の玄海)」などユニークな四股名を考え出したことでも有名であった。師匠としては前頭・大飛翔の他、十両・玄海(前述)や同・岩手富士らを育てた。 1997年5月20日、急性心筋梗塞のため55歳の若さで急逝。同年5月場所の、開催期間中の出来事であった。 朝日山部屋は歴代の師匠が相次いで若くして死去していたこともあり、元・若二瀬の急死により、遂に直系の後継者を欠く事態に陥ってしまった。 そのため、同じ立浪・伊勢ヶ濱連合所属の元大関・大受(当時、楯山親方)が千秋楽まで師匠代理を務め、同場所後正式に朝日山部屋を継承した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「若二瀬唯之」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Wakafutase Tadayuki 」があります。 スポンサード リンク
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