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若原 一郎(わかはら いちろう、1931年8月1日 - 1990年7月16日)は歌手。神奈川県横浜市出身。本名:田野倉 仲義(たのくら・なかよし)。娘でタレントの若原瞳は養女である。 ==来歴・人物== 1948年にNHKのど自慢で入賞し、翌1949年、キングレコードから「船に灯がつきゃ」でデビュー。伸びのある美声に豊かな声量、歌の歯切れの良さにはデビュー当時から定評があったもののヒットが出ず、長い下積み時代が続いた。 1956年に「吹けば飛ぶよな」がヒットすると一躍名が知られるようになり、同年に「風の吹きよで」でNHK紅白歌合戦へ初出場。この年から5回連続で出場している(詳細は下記参照)。 1958年に「おーい中村君」を発売し、50万枚以上を売り上げる大ヒットとなった。 「吹けば飛ぶよな」「おーい中村君」のヒットでコミカルな曲を歌うイメージが強いものの、叙情的な「山陰の道」「少女」といったヒットも出している。また、若原が歌う昭和一ケタ~戦中歌謡、ことに軍歌は根強い人気がある。同じレコード会社の先輩で、敬愛していた岡晴夫の没後は岡のヒット曲を歌い継ぎ、テレビ/ラジオ/ステージ、ファン主催の「岡晴夫を偲ぶ会」で度々歌を披露していた。好評であったこともあり「岡晴夫を歌う」というアルバムも発売した。 昭和30年代後半以降はヒットが途切れ低迷するものの、昭和40年代の懐メロブームで再び脚光を浴び、1970年代以降は懐メロ番組の出演に加え、コメディ/バラエティ番組へも進出。『欽ちゃんのどこまでやるの!?』では未だに学校を卒業できずにいる中年の学生役に扮し話題を呼び、タレントとしての人気を得た。養女だった若原瞳も芸能界入りし、テレビ番組やCMなどで多数共演した。また、この時期にはアデランスのCMに出演し、カツラを使用していたことをカミングアウトした。 1980年代には瞳の結婚に猛反対(結婚相手が米国人であるため)したこともある。その後離婚し、自身がイメージキャラクターを務めていたアデランスの社員だった現在の夫と再婚する際には反対せず、良好な関係を持った。 端正な顔立ちで、自他共に認める万年青年であった若原だが、1985年頃から体調を崩し、1988年からは事実上活動を休止。1990年に肝臓癌のため、58歳で死去した。癌であることは最期まで本人には告知されることは無かった。遺作は1988年発売の「アカシヤ列車」。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「若原一郎」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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