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若尾逸平 : ミニ英和和英辞書
若尾逸平[わかお いっぺい]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [お]
 【名詞】 1. tail 2. ridge 
: [たいら, ひら]
 【名詞】 1. the broad 2. the flat 3. palm

若尾逸平 : ウィキペディア日本語版
若尾逸平[わかお いっぺい]

若尾 逸平(わかお いっぺい、文政3年12月6日1821年1月9日) - 大正2年(1913年9月7日)は日本実業家銀行家政治家。初代甲府市市長。従六位
根津嘉一郎雨宮敬次郎らとともに、郷土意識で緩やかな資本連合を持ち、中央経済界で影響力を持った甲州財閥と呼ばれるグループのひとりで、若尾家はその中核にあたる。
== 来歴 ==

=== 出生から幕末期 ===
甲斐国西郡筋在家塚村(現在の山梨県南アルプス市在家塚)に生まれる。生家は百姓で、父は若尾林右衛門。逸平は長男。若尾逸平の来歴や逸話などは、1914年に内藤文治良内藤文治良(1896 - 1928)は清田村(甲府市)出身の政財界人で若尾家の経営にも携わる一方、地方改良運動に伴う村是の編纂を通じて郷土研究を行っている。〕の記した伝記『若尾逸平』に記されている。
逸平は22歳の時、庭先に実っていた桃の実を見て商売を思いつき、これを竹かごに積んで行商を始めたという。在家塚村は原七郷と呼ばれる甲府盆地西部の乏水地帯で、一帯では畑作のほか綿花煙草の栽培が行われ、逸平はタバコ真綿・繰り錦・篠巻などの産物を扱い、天秤棒を担いで笹子峠小仏峠をも越えて甲府や江戸まで行商の範囲を広げた。江戸では団扇などを仕入れてこれを甲斐で売ったりしたが、笹子峠で追い剥ぎに襲われた上に団扇を雨で濡らしてしまい商品にならなくなったこともあったという。
その働きぶりを認められ、巨摩郡小笠原村(現在の南アルプス市)の質屋である若松新左衛門の娘婿となり、商才を認められた逸平は当時傾きかけていた店を見事に立て直した。しかし妻・おたつと店の番頭である与作との不義を見てしまったことをきっかけに逸平は台帳を義父に預け、店を出ることになってしまったという。
甲斐国では幕末の横浜開港以来、甲州屋忠右衛門ら冒険的投機商が出現し、甲州物産の交易を始める。これらの冒険的投機商は甲府柳町(甲府市中央)の太田屋佐兵衛など伝統的な甲府の富豪に加え、逸平や風間伊七八嶋栄助など在方の新興商人が台頭し、甲府城下の商工名鑑である安政元年『甲府買物独案内』では糸肆商の新興商人として逸平の名が見られる。
逸平も安政初年に甲府城下の中心地である甲府八日町(甲府市中央)へ転居すると、借金50両を資本に織物生糸の仲卸業を始める。逸す平は横浜で外国人相手に生糸・水晶の商売を行い、生糸輸出の投機で莫大な利益を得るようになった。1862年(文久2年)には甲州島田糸の製造機を改良した製糸器械である「若尾式機械」を発明し製糸業にも参入し、工女を集め精製させたという〔「若尾逸平君伝」竹内蠖亭編『起業収載明治百商伝』。なお、内藤『若尾逸平』に拠れば逸平は文久2年(1862年)に甲府八日町から山田町へ移ると、愛宕町の借家とともに製糸機械の導入と工女を集め甲府においてはじめてマニュファクチュア(工場制手工業)を開始したとしているが、逸平は翌文久3年時点では生糸出荷を行っておらず慶応3年以降に出荷量が増大していることから(明治元年「御用日記」甲府町年寄坂田家文書)、文久2年の工場開設に関しては否定的見解もある。〕。
1872年明治5年)に起こった大小切騒動で家や工場が焼き打ちに遭い、また世界的には普仏戦争で生糸の値段が暴落したことなどから製糸業からは手を引き、弟の幾造に財産を分与し横浜で独立させ横浜若尾家として分家し、生糸問屋を営み若尾財閥の一角となる。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「若尾逸平」の詳細全文を読む




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