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若嶌 久三郎(わかしま きゅうざぶろう、1842年9月 - 1891年1月6日)は、福島県会津若松市出身の大相撲力士。最高位は大関。本名は小沢(旧姓根本)久三郎。現役時代の体格は174cm、113kg。福島県出身の力士でただ一人大関になっている。 == 来歴 == 漆器塗師の二男として生まれ、家業を手伝いながら宮相撲で活躍していた。江戸に出て5代楯山(元・大槇)に入門、文久元年(1861年)10月場所で初土俵を踏んだ。押し相撲を得意としたが取り口が慎重すぎたためか出世が遅く、幕下十枚目(十両)内に入ったのが明治3年(1870年)11月場所、入幕は明治7年(1874年)3月場所ですでに数え年で33歳になっていた。この間慶応4年(1868年)に起きた戊辰戦争では故郷会津に戻り、会津藩のために働いたという。 入幕後はそれまでの苦労が実ったかのように好成績を挙げ、明治9年(1876年)1月場所では東前頭3枚目の地位で8勝1分と最優秀の成績を挙げ(当時、幕内最高優勝の制度はなかった)、明治10年(1877年)5月場所に小結、同年12月場所関脇に昇進した。関脇で3年間過ごした後、明治14年(1882年)1月場所で大関に昇進した。この間、幕内では負け越しを記録しなかった。 その新大関の場所9日目(当時千秋楽には幕内力士が出場しないのが慣例だったので事実上の千秋楽となった)、当時の第一人者・大関梅ヶ谷をハズ押しから押し切って破った。若嶌と梅ヶ谷との対戦は梅ヶ谷の11勝1敗1分で、善戦及ばず敗戦の連続だったが、若嶌唯一の勝利がこの場所だった。それまで梅ヶ谷は足かけ6年にわたって58連勝を続けており、若嶌が連勝を止める殊勲の星を挙げたのである。なお、梅ヶ谷はその翌場所から35連勝を記録している。 勝った若嶌は上機嫌で帰宅したのだが、妻はいつものように梅ヶ谷に負けたものと思い込み、若嶌の話を信用しない。ならばと若嶌は妻を相手に取り口を再現して見せたが、勢い余って妻を突き飛ばしてしまい、尻餅をついた妻は腕の関節を痛めしばらく医者通いするはめになったという。 同年夏の東北巡業中、この巡業の看板は1月限り引退した横綱境川浪右衛門(横綱土俵入りのみ行っていた)だったが会津若松に入ったところで境川が病気となり出られなくなってしまった。地元の勧進元は若嶌に横綱土俵入りを依頼し若嶌も了承、福島県令に届けた上で福島県下数箇所で横綱土俵入りを行った。巡業中のことでありどこからも免許を受けたわけでもなく、当然歴代横綱に加えられることもない。 明治15年(1883年)6月場所からは師匠の跡目を継いで「楯山久三郎」を名乗り、二枚鑑札で土俵に上がった。大関を4年8場所勤めて明治17年(1885年)5月場所を最後に引退、年寄専務となった。弟子の育成手腕は確かなもので、大坂相撲で横綱となった若島権四郎はこの大関若嶌の門下で明治31年(1898年)まで東京の土俵に上がっていた。孫娘は前頭・寒玉子の妻となった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「若嶌久三郎」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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