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若杉嘉津子 : ミニ英和和英辞書
若杉嘉津子[わかすぎ かつこ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [すぎ]
 【名詞】 1. Japanese cedar 2. cryptomeria japonica 
: [こ, ね]
 (n) first sign of Chinese zodiac (The Rat, 11p.m.-1a.m., north, November)

若杉嘉津子 : ウィキペディア日本語版
若杉嘉津子[わかすぎ かつこ]

若杉 嘉津子(わかすぎ かつこ、1926年3月23日 - )は、日本の女優である。本名勝田 英津子(かつた えつこ)。女優時代の初期には、若杉 須美子(わかすぎ すみこ)、若杉 紀英子(わかすぎ きえこ)の芸名を使っていた。
== 経歴 ==
1926年(大正15年)3月23日山形県南陽市に生まれる〔『若杉嘉津子インタビュー』、p.80.〕。誕生の日に母を亡くし、1928年(昭和3年)、2歳で東京市大塚(現在の東京都豊島区大塚)の勝田家に養子に出された〔。幼時の記憶をなくしていたために長らく勝田家の実子と思い込んでいたが、女学校時代に戸籍謄本を偶然目にして養子であることが判明する〔。出生時の真実については、2000年(平成12年)のインタビューで初めて明らかにしたため〔、それ以前に出版されたキネマ旬報社・刊『日本映画人名事典』(1995年)の若杉嘉津子の項目などでは「1928年東京市出身」となっている〔。
洗足高等女学校(のちの洗足学園第一高等学校)を卒業した〔『日本映画人名事典 女優編』、p.915 - p.916.〕。1943年(昭和18年)、三菱銀行(現・三菱東京UFJ銀行)に入社し築地支店に勤務〔『正直に 若杉嘉津子』、p.34.〕。1944年(昭和19年)には職場挺身隊員として三菱系列の三菱重工大井町工場に出向し、1945年(昭和20年)に終戦を迎えた〔。同年9月、雪印乳業に入社する〔『正直に 若杉嘉津子』、p.36.〕。同社の職場演劇に2回出演したことで演技に興味を持つようになり〔、1947年(昭和22年)、大映(現・角川映画)の第3期ニューフェース募集に応募して合格した。同期に根上淳がいる。同年、大映演技研究所への入所に際して雪印乳業を退職した。
1948年(昭和23年)、若杉須美子の芸名で春原政久監督『親馬鹿大将』の端役として映画デビュー〔『正直に 若杉嘉津子』、p.42.〕。同年の田口哲監督『夜のプラットホーム』では、出演が取りやめになった大女優(氏名不詳)の代役として戦争未亡人の大役を演じている〔。大映の永田雅一社長に女優としての将来性を認められており〔『正直に 若杉嘉津子』、p.48.〕、デビュー以来次々と映画に出演する機会に恵まれ、1951年(昭和26年)には同社専属の船越英二とともに俳優座に演技実習生として送り込まれている〔。しかし、1952年(昭和27年)、「女優として大成したければ結婚はするな」という永田の命令〔を破って、共同通信の記者(氏名不詳。結婚直後に報知新聞社に転職)と結婚したために、翌1953年(昭和28年)に大映を退社した〔。同年、結婚の媒酌人をつとめたプロデューサー・児井英生のすすめで新東宝に移籍〔『正直に 若杉嘉津子』、p.52.〕。内川清一郎監督作品『半処女』(1953年)から1961年(昭和36年)に新東宝が倒産するまで、同社の看板作品である、時代劇、毒婦もの、怪談映画に出演した〔『若杉嘉津子主要出演映画作品リスト』、p.203-p.207.〕。
新東宝倒産後は、フジテレビのテレビドラマ『夜の扉』(1963年)にレギュラー出演し、大映で土居通芳監督作品『嫉妬』(1962年)、国映若松孝二監督作品『激しい女たち』(1963年)に出演している〔。『激しい女たち』のポスターに自身のヌードが使われたことや〔『正直に 若杉嘉津子』、p.67.〕NETのテレビドラマ『特別機動捜査隊』で悪役を演じた際に一人娘を泣かせてしまったこと〔『若杉嘉津子インタビュー』、p.189.〕などから、女優としての将来に不安を覚え、1964年(昭和39年)に女優を引退した〔。夫とは新東宝時代の1957年(昭和32年)にすでに離婚しており〔『正直に 若杉嘉津子』、p.57.〕、引退後は一人娘を育てるために職を転々とし、呉服店の販売員として1987年(昭和62年)に定年を迎えた〔『正直に 若杉嘉津子』、p.69.〕。
長く映画界から遠ざかっていたが、2000年(平成12年)に円尾敏郎・編によるインタビュー本『妖艶 幻想 怪奇 慈愛 若杉嘉津子』が出版されて、再びクローズアップされた。また、心の師と仰ぐ中川信夫〔『正直に 若杉嘉津子』、p.58.〕を偲ぶ酒豆忌〔中川信夫#経歴〕にはたびたび参加している。中川信夫生誕100周年を記念して2005年(平成17年)に東京フィルメックスで開催された特集上映『中川信夫 地獄のアルチザン』において、出演作『人形佐七捕物帖 妖艶六死美人』上映後にトークショーのゲストとして出演〔中川信夫生誕百年記念企画情報「東京フィルメックス」 、中川信夫公式ホームページ『中川信夫を語り継ぐ者たち』、2010年3月14日閲覧。〕、中川監督によって作られた自身の代表作『東海道四谷怪談』(1959年)や『毒婦高橋お伝』(1958年)の回想も交えたトークを行っている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「若杉嘉津子」の詳細全文を読む




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