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若松 賤子(わかまつ しずこ、1864年4月6日(元治元年3月1日) - 1896年(明治29年)2月10日)は、教育家、翻訳家、作家。巌本善治夫人。バーネットの『小公子』の名訳で知られ、日本で初めて少年少女のためのキリスト教文学を紹介した〔〕。 == 生涯 == 松川勝次郎正義の長女として、会津藩城下の阿弥陀町(現・会津若松市宮町)に生まれた。『甲子』(かし)の名は干支に因む。1歳のとき父正義は隠密となり、1868年(明治元年)の戊辰戦争の間は、母と甲子と妹美也(0歳)だけで過酷な状況に耐えた。正義は翌年、藩の移封先、斗南(現・むつ市)へ去り、母は1870年(明治3年)、会津で没した。 甲子は、若松に来ていた横浜の商人大川甚兵衛に見込まれて養女となり、1871年(明治4年:本人7歳)、プロテスタントのメアリー・キダー(Mary E. Kidder)の英語塾(のちのフェリス女学院)に入ってアメリカ式の教育を受けた。1877年(明治10年:本人13歳)の時、日本基督公会(現在、日本キリスト教会横浜海岸教会)で稲垣信牧師より受洗した。 1881年(明治14年:本人17歳)、若松はフェリス女学院高等科を終了し、母校の和文教師として教壇に立った。この頃に名乗った『島田』姓は、父の隠密時代の仮の姓という。 1883年(明治16年)、養父が亡くなり、1885年(明治18年)、上京していた勝次郎のもとへ復籍した。既に肺結核を病んでいた。 フェリスに講演に来た巌本善治と知り合い、1886年(明治19年)、彼の主宰の『女学雑誌』誌に、紀行文『旧き都のつと』と詩『木村鐙子を弔ふ英詩』を若松賤子名で掲載した。若松は故郷、賤子は『神のしもべ』の意という。しづ・賤・某女・賤の女、なども用いた。『甲子』も『嘉志子』と書いた。そして1889年(明治22年:本人25歳)巌本と横浜海岸教会で結婚し、フェリスを退いて善治の『明治女学校』で教鞭を執った。巌本・若松夫妻の二人は後に清子・荘民・民子ら3人の子を授かることになる。 50余篇の記事を女学雑誌に載せ、特に1890年(明治13年)から翌々年にかけて同誌に連載した『小公子』は森田思軒や坪内逍遥に激賞され、長く少年層に読み継がれることになった。 1894年(明治27年:本人30歳)からは、英文誌『The Japan Evangelist』(日本伝導新報)の婦人欄と児童欄を担当し、日本の行事や習慣の紹介を70余篇掲載する。 家事と育児と執筆の多忙な中で、若松の結核の病状は進行していく。1896年2月、明治女学校が炎上した5日後に、心臓麻痺が原因で死没した。遺体は、染井墓地に葬られた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「若松賤子」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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