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若水ヤエ子 : ミニ英和和英辞書
若水ヤエ子[わかみず やえこ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

若水 : [わかみず]
 (n) first water drawn from a well on New Year's Day
: [こ, ね]
 (n) first sign of Chinese zodiac (The Rat, 11p.m.-1a.m., north, November)

若水ヤエ子 : ウィキペディア日本語版
若水ヤエ子[わかみず やえこ]

若水 ヤエ子わかみず やえこ、本名 村上(旧姓 鏑木)八枝子、1927年10月8日 - 1973年5月28日)は、千葉県船橋市出身の女優コメディアン東北弁(いわゆるズーズー弁)訛りを売り物にした女性コメディアンの第一人者である。「おヤエ」の愛称で知られ、天性とも言える抜群の歌唱力と演劇センスから「女エノケン」の異名も持っていた。夫は作家脚本家村上清寿
== 来歴・人物 ==

=== 国民的喜劇女優誕生 ===
1927年(昭和2年)10月8日千葉県船橋市で生まれる。父親は国鉄の職員(両国駅助役)であり、厳格な性格だった。若水はそんな固い家庭で育ったと言う。
1943年(昭和18年)、船橋市にある船橋高等女学校(現・東葉高等学校)に入学するも、当時新劇新派の大スターだった女優の水谷八重子に憧れて演劇への道を志すため、進学を希望していた両親の反対を押し切って中退。時代劇スターを目指すために「女剣劇」で名を馳せた酒井栄子一座や筑波澄子一座に入団して剣劇を学ぶも、戦時中の言論統制で思うような演劇活動が出来ず、終戦となった1945年(昭和20年)にはGHQによって「剣劇は軍国主義の象徴」として活動を禁止されてしまう。大半の剣劇スターが剣劇を捨てて現代劇の役者に転身した事や剣劇の劇場が次々と閉鎖されてストリップ劇場になってしまった事に若水は絶望し、剣劇に見切りをつけて一座を退団した。
その後1946年(昭和21年)、ムーランルージュ新宿座の門を叩き、歌手として入団して芸能界入りした。入団後しばらくは本名の「鏑木八枝子」で出演していたが、後に「若水ヤエ子」を芸名に使うようになる。この芸名は尊敬していた「水谷八重子」の名前をもじったものである。ムーラン在籍時は歌、ダンス、演技を厳しく徹底的に叩き込まれ、この経験が後に彼女が喜劇女優(コメディエンヌ)として開花させるきっかけとなる。当時は歌手として活躍する傍ら、NHKラジオ番組ソーラン娘』などに出演して精力的な活動を行っていた。ムーランルージュ時代の後輩に楠トシエがいる。
1951年(昭和26年)5月のムーラン解散後は活躍の場を舞台からラジオやテレビ、スクリーンに移し、本格的に女優業に専念する。女優としての初出演作品は1951年9月21日公開の映画『花嫁蚤と戯むる』で、23歳の時であった。その後も様々な映画、ドラマの名脇役として出演し、独学で学んだ独自の東北弁ズーズー弁)訛りで人気を呼ぶ。そして1957年(昭和32年)公開の映画『おトラさん』では脇役であるにもかかわらず、彼女のコメディー志向の持ち味が存分に発揮された作品となり、一躍人気女優の仲間入りを果たした。ちなみに、この東北弁があまりに流暢だったため、彼女を東北地方出身だと思い込んだファンや業界関係者が非常に多く、役者紹介でも千葉県出身のはずが青森県や岩手県などの東北地方出身と誤植された事が多かったと言うエピソードが残っている。
また、村上清寿が脚本を担当した映画に出演した事がきっかけで村上との交際が始まり、1954年(昭和29年)に結婚している。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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