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深川造船所(ふかがわぞうせんじょ)はかつて福岡県に工場を所有していた船舶・鉄道車両・機械メーカー。明治時代に勃興し、大正時代に佐賀県において全盛期を迎えた地方財閥の一つである深川家によって創設され、同家の没落と共にその役割を終えた。 本項では、当造船所と表裏一体の関係にあった深川汽船株式会社および両社の母体となった大川運輸株式会社、それに深川家の資産運用会社として機能した地所株式会社についても併せて記述する。 == 歴史 == === 創業期 === 幕末に家業を捨て独立した深川嘉一郎(1829 - 1901)〔佐賀郡久保田村福富において代々造り酒屋を営んでいた佐賀藩御用商人の古賀家長子で、20代までは家業である酒造業に就いていた。〕〔佐賀市史第4巻 pp.172-174。〕は、明治時代初期に佐賀藩が保有していた船舶〔神幸丸・涼風丸・長永丸・天幸丸・芳風丸など。〕の払い下げあるいは借用により、海運業に乗り出した〔佐賀市史第4巻 pp.172-174。〕。 彼は有明海から長崎を経由して大阪に至る航路を確立、この航路が大きな成功を収めたことから、引き続いて有明海に面した福岡県三潴郡大川町の若津港〔若津港自体は筑後川に面した河港で、佐賀平野の農作物の他、明治時代前期には日田地方で産出する木材の積出港として殷賑を極めた。〕を母港とする新規航路を次々に開拓、その事業は年々拡大の一途をたどっていった。 この過程で深川嘉一郎は自らが保有し使用する船舶の修理を自前で行う必要を感じ、1883年に自前の修理施設を若津港に設置した。 その後、嘉一郎は自己の事業の経営基盤を確立すべくこの海運・船舶修理事業の法人化を企図して1891年に大川運輸株式会社を設立、自らが社長に就任し息子の文十(1849 - 1908)を取締役とするなど、経営陣を深川家一族やその舎弟といった関係者で固めた〔『日本全国諸会社役員録. 明治30年』 (国立国会図書館デジタルコレクション)〕。同社では船舶の運航を司る運輸部を深川汽船部、船舶の修繕を担当する工務部を深川造船所と呼び、当初は運輸部が使用する自社所有船舶の修理に限って工務部を運用した〔佐賀市史第4巻 pp.174-176。〕。 この大川運輸の事業はその後も引き続き順調に発展した。1893年には、深川家一族が一連の事業で得た収益で購入した土地の面積が300町歩を突破し巨額の益金が発生したことから、保有資金と土地のさらなる有効活用を図るべく、資本金を4万円投じて土地保全と小作人からの小作米取り立てなどを専門に担当する地所株式会社が設立された〔佐賀市史第4巻 pp.169-171。〕〔『日本全国諸会社役員録. 明治28年』 (国立国会図書館デジタルコレクション)〕。続いて1894年には、鹿児島・島津家が所有していた集成館機械工場で不要となった竪削盤〔この竪削盤は後述するように流転の末、1998年に北九州市の若松車輛が工場を閉鎖するまで現役で使用され、現在は国立科学博物館に収蔵・展示されている。〕をはじめとする幕末以来の高価な輸入大型工作機械を購入、若津の工場に設置している。 こうして会社の事業が急成長する中、1901年に創業者である深川嘉一郎が逝去し、子の深川文十がその後を引き継いで大川運輸の社長に就任する。文十は経営者としての能力もさることながら、発明家としての才に恵まれた人物であった。彼は自社船舶の性能向上を目論んで文十式螺旋推進器を1906年から1907年にかけて考案、特許を取得し、これはその効率の良さから海軍省に採用されるほどの成功を収めた〔日本の蒸気動車(上) pp.12-13。〕。彼は1908年に59歳で急死するが、深川家の会社経営は子の喜次郎に引き継がれてさらなる発展を示し、また文十の示した技術面での進取の気風は、後身である若津鉄工所時代に至るまで、技術陣に受け継がれてゆくこととなる〔喜次郎本人にも技術者としての才が受け継がれていたのか、それとも急逝した文十の考案したものを相続したのか、日本で独自に設計・製造されたものとしては最初の蒸気動車の特許が深川喜次郎名義で1908年に出願され、1909年に成立している。この蒸気動車は片運転台式であったことがネックとなり製品としては成功しなかったとされる。もっとも、この蒸気動車は、船舶で一般的であった水管式ボイラーを採用し、動台車のセンターピン部分を多重構造の同軸管として蒸気圧やブレーキ力の台車への伝達に用いるなど、極めて野心的かつ斬新な設計が採用されており、単に小型の煙管ボイラー搭載蒸気機関車を客車車体に内蔵して両端から操作可能にしたにすぎない、工藤式に代表される後続の日本製蒸気動車群とは一線を画するものであった。なお、この蒸気動車についてはほとんど記録が残されていないが、佐賀市史第4巻p.176に不鮮明ながら1910年の福岡共進会に展示された際に撮影されたとおぼしき実車写真が掲載されており、浅いシングルルーフ上にそろばん玉状の火の粉止め付き煙突を載せた、極めてコンパクトなボギー車であったことが確認できる。〕〔。 文十没後の1909年に若津港の造船所設備が拡張され〔、同時期には地元若津と柳河を結ぶ3フィート(914mm)軌間〔この時代の筑紫平野周辺地域には、馬車鉄道・軌道などとして、日本の他の地域にほとんど例を見ない、3フィート軌間の鉄軌道が稠密に発達していた。三潴軌道もその1つである。〕の三潴軌道〔深川文十が三潴軌道の発起人の一人として関与している。〕〔大川市誌 p.630。〕向けに最初の蒸気機関車を客貨車と共に納入した〔鉄道ピクトリアル No.668 p.125。〕。これは雨宮製作所製のいわゆる「へっつい」型と呼ばれる軌道用超小型機関車〔これもそもそも熱海鉄道向けにアメリカから輸入した、トラム・ロコと呼ばれる軌道線用小型蒸気機関車を模倣したもので、雨宮製作所あるいは大日本軌道と関係のあった、あるいは大日本軌道の支社であった各鉄道・軌道へ納入された。ボイラー中心が極端に低く、その両脇に細長い水タンクを設けた、独特の形状で知られる。なお、「へっつい」型という呼称は、作中で熱海軌道を描写した志賀直哉の『真鶴』での「小さい事、まるでへっついだな」という形容に由来する。〕をデッドコピーしたものであったが、以後、深川造船所はベーカー式弁装置と呼ばれる斬新な機構を備えた南隅軽便鉄道1形(1914年)をはじめ、機構・設計共に独自色の強い個性的かつ野心的な設計の車両をいくつも送り出している。 1910年7月には運輸部が深川家の本邸のある佐賀県佐賀市道祖本町へ移転〔、従来は一体であった造船所と運輸部の機能は完全に分離された。 その後、第一次世界大戦の開戦までは船舶需要の低迷もあって事業不振が続き、1915年には一部会社の整理が行われている〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「深川造船所」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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