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若生 忠男(わこう ただお、1936年8月22日〔「プロ野球人名事典2001」578P、森岡浩、日外アソシエーツ発行、紀伊國屋書店発売、2001年、ISBN 978-4816916694〕- )は、宮城県出身の元プロ野球選手。1970年シーズンの登録名は若生 忠泰(わこう ただやす)。 == 来歴・人物 == 東北高等学校時代は若生智男、若生照元と共に「三若生」と呼ばれたが、甲子園には届かなかった〔『完全版 プロ野球人国記 北海道・東北編』(ベースボール・マガジン社) 102頁。ISBN 978-4-583-03805-6〕。に西鉄ライオンズに入団。3年目のには先発陣の一角として起用され9勝〔『朝日新聞』1957年7月17日付朝刊 (12版、7面)〕。同年の日本シリーズでも最終第5戦に先発し、チームの日本一に貢献した。その後も長く主力投手として活躍。1964年8月30日の対東映フライヤーズ戦で主審に暴言を吐いたり土を蹴散らすなどし退場処分となった〔『朝日新聞』1964年8月31日付朝刊 (12版、12面)〕。1966年7月15日から17日に3日連続で救援勝利を記録〔『プロ野球記録大鑑(昭和11年-平成4年)』(宇佐美徹也著:ベースボール・マガジン社) 776頁。〕。1967年9月17日の対阪急ブレーブス戦ではノーヒットノーランを達成。に通算100勝を挙げる〔『朝日新聞』1968年7月1日付朝刊 (12版、13面)〕。同年オフに読売ジャイアンツに移籍。には3勝をあげ、同年の日本シリーズでも3試合に登板するが、限りで現役を引退した。 引退後、テレビ西日本の解説者( - )を経て、に1年間だけロッテオリオンズの一軍投手コーチを務めた。 1998年11月9日逝去。享年62歳。 背番号が見えるくらい全身をひねり、アンダースハンドからキレのいい変化球を投げる独自のフォームで「ロカビリー投法」と呼ばれた〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「若生忠男」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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