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馬場口 洋一(ばばぐち よういち、1966年3月8日 - )は、東京都中野区(出生地は千葉県千葉市)出身で日本の男性総合格闘家、二子山部屋所属の元大相撲力士。大相撲時代の四股名は若翔洋 俊一(わかしょうよう しゅんいち)、最高位は東張出関脇、キックボクシング・総合格闘技でのリングネームは若翔洋、WAKASHOYOを経て本名と同じ馬場口洋一にしたが、現在は再び若翔洋を名乗ってプロレスラーとして活動している。得意手は左四つ、寄り、小手投げ。 == 経歴 == === 大相撲時代 === 中野区立中野富士見中学校(現・南中野中学校。1学年先輩に野村義男がいる)を卒業後、1981年に二子山部屋(師匠は第45代横綱・若乃花)へ入門。同年5月場所に馬場口の四股名で初土俵を踏んだ。付き人を務めていた第59代横綱・隆の里による命名で三段目時代の1983年11月場所より四股名を紫電隆(しでんりゅう)と改名し、1986年1月場所に三段目優勝して幕下に定着した。しかし脊髄分離症によって休場が続いたこともあり、四股名も馬場口に戻した。 治療のかいもあり、1991年5月場所で十両に昇進して若翔洋俊一と改名、十両を2場所で通過して同年9月場所に新入幕を果たした。1993年には元大関・貴ノ花の藤島部屋と合併して新・二子山部屋所属となり、後に横綱となる貴乃花、若乃花兄弟など稽古相手に恵まれ(若貴との対戦が無くなったことは一部で惜しまれた)、1993年3月には小結昇進、横綱・曙を破るなどして10勝5敗の成績を挙げ、翌5月場所には関脇に昇進した。 三役・幕内上位にいたが怪我のため、その後は伸び悩み幕内下位と十両を往復するなどして1997年9月場所には幕下まで陥落、同年11月場所限りで引退した。引退後は、年寄・音羽山を襲名して二子山部屋部屋付き親方として後進の指導にあたった。2000年3月、元小結・隆三杉の藤島親方が音羽山に名跡変更することになり日本相撲協会を退職した。 2012年12月より兵庫県加古川市で力士料理『若翔洋』をオープンしたが、2014年6月30日に賃貸契約と移転問題で閉店を余儀なくされた。2014年12月に雑誌のインタビューに応じた際には、霊園開発および墓石販売を行う『山石』の社長の支援もあって同社の告宣伝部門を務めており、山石ピクチャーズの専属タレントも行っていることを明かした。同年10月4日からは『BAN-BANラジオ』で毎週土曜日午後9時『ごっちゃんです!』の主役を務めており、居住状況についても「加古川市内一人暮らししてる。もちろん、住民票もちゃんと移したし、もうすっかり播州の人間だよ」と答えていた。〔元関脇・若翔洋 加古川で墓石会社の広告塔になっていた(1/4ページ) 日刊ゲンダイ 2014年12月8日〕〔元関脇・若翔洋 加古川で墓石会社の広告塔になっていた(2/4ページ) 日刊ゲンダイ 2014年12月8日〕〔元関脇・若翔洋 加古川で墓石会社の広告塔になっていた(3/4ページ) 日刊ゲンダイ 2014年12月8日〕 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「馬場口洋一」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Wakashoyo Shunichi 」があります。 スポンサード リンク
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