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若鳴門 清海(わかなると きよみ、1939年2月7日 - 2011年4月18日〔時事ドットコム:元若鳴門の居内徳夫氏死去 〕)は、兵庫県三原郡三原町(現役当時、現在の同県南あわじ市)出身で、1960年代に活躍した大相撲力士。春日野部屋に所属していた。最高位は西前頭6枚目(1966年7月場所)。現役時代の体格は182cm、115kg。本名は居内 徳夫(いうち とくお)。得意手は右四つ、突っ張り、投げなど。 == 来歴 == 中学時代から土地相撲の大関と互角に取れたため、大相撲の世界に入ることを志したが、自宅で待針を踏んで右足の親指を貫通させてしまった。すぐに手術して針を抜いたが、傷が癒える前に農作業に出て破傷風にかかってしまった。あわや右脚切断かという重症だったが、どうにか右足親指切断にとどまった。しかし、このことが元で1度は大相撲を諦め、地元の県立三原高校に進学。高校では最初、陸上部に所属したが、ほどなく相撲部に移った。後に、右手の人差指を失いながら水泳で名を上げた「フジヤマのトビウオ」こと古橋広之進や右目を事実上失明し開けている方が見えづらいという状態ながら大横綱にまで登りつめた双葉山の存在を知って、自分にもできると思い、三原高校を中途退学して春日野部屋に入門。1955年1月場所で初土俵を踏んだ。 初土俵の場所では番付外と新序でともに好成績を残したため、同年3月場所では序ノ口を飛び越して、いきなり序二段に付いた。 当初の四股名は本名でもある「居内」だったが、1957年11月より、同郷・同部屋の先輩である鳴門海に因んだ「若鳴門」へ改名。その後、1961年11月場所で新十両に昇進し、1963年1月場所で新入幕を果たした。 右足の親指を失っているため、踏ん張りが効かず前に落ちやすいのが最大の弱点だった。これを克服すべく足腰を徹底的に鍛え、俵伝いにつま先で歩く稽古もした。しかし、やはり足の指を失った影響か大勝ちはできず、番付が上がると大負けして落ち幕内に定着できずに十両との往復を繰り返した。突っ張り・吊り・投げ・捻り・はたき・足技など多彩な取り口を駆使して相撲を取ったが、三賞を手に入れることはできなかった。 1969年5月場所以降は幕内に返り咲けず、東十両12枚目で大敗した1970年5月場所を最後に、31歳で引退。 引退後は年寄・千田川を襲名し、相撲教習所の指導員を長く務めた。その後は巡業部に異動し、2004年2月6日に停年を迎えた。 2011年4月18日、心不全のため千葉県市川市内の病院で逝去。72歳没〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「若鳴門清海」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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