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英 百合子(はなぶさ ゆりこ、1900年3月7日 - 1970年2月7日)は日本の女優。広島県呉市吉浦町出身〔〔 広島快人伝 (広報誌「すこぶる広島」1995年10月号) - 広島県(2009年7月30日閲覧)〕。日本初の本格的映画女優といわれる〔#四方田24、347頁〕。同じ女優の永井百合子は柳永二郎との娘、俳優の長谷部健は中野英治との息子〔母もの映画考察(映画ドラマと母性 VI) 帝京大学 水口紀勢子 126-127頁 〕。 == 経歴 == 1915年、呉市立高等女学校(現・広島県立呉三津田高等学校)3年生の時、吉浦町内の演劇場(吉浦座)に来た旅芸人の後を追い出奔。のち女学校を中退〔。1917年浅草で鈴木康義が旗揚げした「東京少女歌劇団」に一条久子らと参加〔古川薫『望郷奇譚』文藝春秋、2006年、138頁〕。その後、1920年国際活映に入るが同年10月、小山内薫が松竹キネマ研究所を設立した際に招かれて参加〔#女優編522-523頁〕。小山内は、日本で最初の本格的女優の育成を開始したが〔、その第一作として製作した『路上の霊魂』に別荘の令嬢役で主演した〔〔。英はメアリー・ピックフォードに代表される当時のハリウッド女優の視覚的模倣を意識的に行なった〔ミツヨ・ワダ・ マルシアーノ『ニッポン・モダン 日本映画1920・30年代』名古屋大学出版会、2009年、125-126頁〕〔初期時代の日本映画における演技形態の変遷 -型の演技から表情の演技へ -早稲田大学演劇博物館 谷口紀枝 183頁 〕。その演技は当時「バタ臭い」とも揶揄されたが、それは英の演技が、アメリカ女優のように表情豊かなもので、日本の映画俳優の演技がここに至ってようやく伝統から脱し「型」の演技から自然な「表情」の演技へと変遷しているといわれる〔。その後松竹蒲田撮影所へ入社し1922年、『散りにし花』に主演〔。当時は流行の最先端をいくモダンガールのひとりで、令嬢役や妖婦役を得意とした〔。1927年に同郷でもある4才年下の日活スター中野英治と結婚、1928年には男児をもうけた〔。1927年、阪妻・立花・ユニヴァーサル連合映画に招かれ、『青蛾』、『美しき奇術師』に主演〔。中野の母親役で発狂を力演した1929年の『灰燼』は、キネマ旬報ベスト・テン2位となり代表作とした〔。同年中野英治と離婚。その後日活、帝国キネマなど各社を転々として1933年PCLに入社。1934年の『妻よ薔薇のやうに』の子持ちの妾役もキネマ旬報ベスト・テン1位に選ばれこれも代表作とした〔。サイレント映画全盛期に於いては既にヒロインになるスターとしては年齢的に無理であったため、達者な脇役として戦後まで活躍した〔佐藤忠男・吉田智恵男『日本映画女優史』(フィルム・アートシアター)、芳賀書店、1975年、261頁〕。1937年の『母の曲』から、1943年の『決戦の大空へ』へまで、女優第二世代ともいうべき〔原節子の母役をしばしば務めた〔。日本最初の"母物"女優、"老け役"女優ともいわれ〔、戦後は母役や老け役で各社の映画に出演した〔〔#女優編138頁〕。母物映画で著名な三益愛子は英をロールモデルにしたという見方もある〔。 故郷である呉市吉浦町には生涯2、3回しか帰郷していないと言われる〔新宅春三『年表で読む ふるさと吉浦の今昔』(120頁より引用)〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「英百合子」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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