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苻 丕(ふ ひ)は、五胡十六国時代の前秦の第4代皇帝。3代皇帝苻堅の庶長子。 == 生涯 == 少年時代から文武両道の才能があり聡明だったが、生母が正室でなかったので前秦の世子に立てられず、弟の苻宏が代わって太子となった。やがて父から長楽公に封じられ、378年から379年にかけて東晋の襄陽を姚萇・慕容垂と共に攻め落とし、鄴に鎮座した。 383年、淝水の戦いで父が東晋に敗れると関東は大混乱に陥り、翌384年には早くも鮮卑族の慕容垂らが自立して鄴に迫った。同年1月、苻丕は鄴城に立て籠もり、慕容垂率いる丁零・烏桓・鮮卑兵20万の大軍に包囲された。慕容垂は鄴城外に行宮を建てて燕王に即位したが(後燕)、苻丕は氐軍を率いて頑強に抵抗し、385年8月まで持ちこたえた。 鄴が包囲されているさなか、関東各地では後燕に呼応する動きが続出した。とりわけ氐族の大軍団が駐屯する幽州・并州が後燕の別軍によって陥落すると、鄴は南北から挟み撃ちされる形となった。385年8月、苻丕はついに民6万を率いて鄴を脱出し、晋陽に本拠を移した。同年、父が姚萇に殺害されると、苻丕は晋陽で前秦皇帝に即位した。 苻丕は即位すると、王永(王猛の子)の目覚しい活躍もあって関東各地に孤立する前秦の残党を糾合し、晋陽を中心に一大勢力を形成した。しかしすぐに後燕に反撃され、386年8月、事態打開のため南下して平陽に拠点を移した。この動きに脅威を懐いた西燕の慕容永は、同年10月に前秦と決戦を挑んで撃破(襄陵の戦い)、王永ら苻丕の重臣を殺害した。苻丕は近臣や禁衛軍を失い、一族から殺害されることを恐れて東垣へ逃亡しようとしたが、途中で東晋の将軍馮該の軍勢に邀撃されて敗死した。 苻丕の諸子は東晋へ送られ、既に降伏していた旧天王太子苻宏の幕僚とされた。一方、苻丕の残軍は苻纂によって率いられ、関中の杏城に移った。苻纂は苻丕の子苻寧を枹罕の苻登へ送り、これと連携しようとした。しかし、苻登が帝位に即いたため、やむなく苻登から魯王を拝した。387年、杏城の旧前秦本体は苻師奴に乗っ取られ、ついで後秦に敗れてオルドスへ逃れた。こうして苻丕の晋陽政権の残党は消滅したのである。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「苻丕」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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