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苻 生(ふ せい)は、五胡十六国時代の前秦の第2代皇帝である。 苻洪の孫で初代皇帝苻健(高祖・景明帝)の第3子である。次兄は夭折したという。 == 生涯 == 苻生は生来、眇(=すがめ、片目が極端に小さいこと)だった。また幼いころから粗暴で粗雑な性格を持っていたので、祖父の苻洪から忌み嫌われていた。 あるとき、祖父の苻洪は「片目の子供は涙はひとつしか流さないと申すが、まことであろうな?」と近侍に訊いた。その近侍は「その通りでございます」と答えた。 これを聞いた苻生は激怒し、両人の前に現れて抜刀すると自らの片目を刺し、血を流して「お祖父上、これがもうひとつの涙でございます」と叫んだ。苻洪は驚愕して、「わが家に隻眼のような容貌を持った子は、まことに遺憾で不吉である!」と苻生の背骨に鞭を打ったが、苻生は「私は戦場での刀傷には耐えられまするが、(お祖父上に)鞭に打たれるのは我慢なりません!」と口答えした。 物陰でこれを聞いた苻洪は激怒して「そちが改心しないなら、奴隷に落とすぞ!」と叫んだ。しかし、苻生は「お祖父上は石勒よりは劣るでしょうな」と叫び返した。これを聞いた苻洪は、逆上して孫の苻生の口を塞ぐために足で踏みつけ、傍らにいた子の苻健に対して「お前の子は気が狂っておる。この子は苻家の鬼っ子で、将来の禍となろう。即刻に誅殺せよ。この子は成長すれば、必ず苻家を破滅させる!」と叫んだ。父の厳命で仕方なく苻健がわが子苻生を殺害しようとしたときに、その末弟の苻雄(苻堅の父)が進み出て「父上、兄上、長生(苻生)はまだ子供です、この処置は過酷すぎます。彼も成長すれば丸くなりましょう」と懸命に制止したため、末弟の諫言で胸を撫で下ろした苻健は、わが子をそのまま助命した。 祖父の苻洪から忌み嫌われて成長した苻生は、以降も些細な理由で祖父から「お前のような鬼っ子はこうしてくれるわ!」と背骨を鞭打たれていた。長ずるにつれて祖父に対する激しい憎悪を燃やしていた。 成長して越王に封ぜられる。長兄で太子の(献哀太子)が東晋の桓温と戦って、全身に流れ矢を浴びて戦死を遂げると、苻生が代わりに太子となった。これに不満を持った従兄である平昌王苻菁が宮中に侵入して、苻生を弑することを試みるが、逆に苻菁は苻生によって殺害された。 やがて、苻生の理解者だった苻雄が亡くなり、355年6月に父の死に伴って即位した苻生は、恐るべき暴君となった。少年時代に祖父に虐待されたことと関係があったのか、苻生は暴政を行なって乱行を繰り返した。些細な理由で500人あまりもの妃、女官、従僕、官吏などを殺戮して、顔の皮を剥ぎ取った罪人を歌い躍らせて楽しんだ。彼は容貌に関する劣等感からは終生抜け出すことができず、自身の隻眼に触れる大臣を処刑したばかりか、「残」「偏」「欠」「少」などの文字や言葉を使った者まで誅殺した。 ただし軍事的には、356年2月に前涼を服属させ、357年5月には姚襄を敗死に追い込み弟の姚萇を服属させるなど、かなりの戦果を挙げている〔三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P90〕。 だが暴君に大いに怨満を持つ大臣一派は、苻生の従弟である苻法・苻堅兄弟(叔父・苻雄の子)を擁立した。暴君の符生は結局、357年6月に無惨に殺害されたという〔。 なおその死に関しては、若い時から大酒飲みだった苻生は昼夜と無く酒に溺れ、クーデターの際にも昏睡状態だったところを殺害されたという〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「苻生」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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