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茂原 英雄(しげはら ひでお、1905年〔『日外アソシエーツ whoplus』「茂原 英雄(モハラ ヒデオ,映画技師)」の項〕 - 1967年12月8日)は、日本の撮影技師、編集技師、録音技師〔茂原英雄、日本映画データベース、2010年3月2日閲覧。〕、実業家である。松竹蒲田撮影所時代の小津安二郎と組んだ技師であり、「茂原式トーキー」とも呼ばれるSMSシステム(スーパー・モハラ・サウンド・システム)の考案者である〔『松竹大船撮影所秘話 トーキー映画本格始動 古畳で防音を図り撮影』、森田郷平、神奈川新聞、2006年2月20日付記事。〕。茂原研究所代表取締役社長、ラジオ映画監査役を歴任〔発掘された映画たち2005 、東京国立近代美術館フィルムセンター、2010年3月2日閲覧。〕。姓の茂原を「モハラ」と呼ぶのはニックネームである〔Hideo Shigehara, Internet Movie Database, 2010年3月2日閲覧。〕。 == 人物・来歴 == === 小津番の撮影技師 === 1905年(明治38年)、新潟県妙高市の赤倉温泉に生まれる。実家は旅館を営んでいた。 17歳の時上京して、松竹蒲田撮影所(1920年(大正9年)開設)に入社する。1923年(大正12年)には、辻万歳人監督の『温き涙』で佐々木太郎とともに共同撮影をして、技師としてデビューした〔。1925年(大正14年)、吉野二郎監督の『夕立勘五郎』等の撮影を手がける〔。1927年(昭和2年)、松竹蒲田の女優・飯田蝶子と結婚する。 1928年(昭和3年)、前年に剣戟映画『懺悔の刃』を撮ってデビューした小津安二郎の第2作である現代劇『若人の夢』の撮影を手がけ、以降「小津番」のカメラマンとなる〔〔小津安二郎 、日本映画データベース、2010年3月2日閲覧。〕。 1936年(昭和11年)の初め、小津とのタッグ第31作にあたるサウンド版のサイレント映画『大学よいとこ』の撮影を手がけ、同作は同年3月19日に公開される〔大学よいとこ 、日本映画データベース、2010年3月2日閲覧。〕が、茂原は蒲田の花街にトーキーの研究施設「茂原研究所」を設け、撮影所が1931年(昭和6年)の五所平之助監督作『マダムと女房』以来、土橋武夫の「土橋式トーキー」を採用するなか、独自にトーキー・システムを研究した〔。同年、同撮影所は同年1月にすでに大船に完成していた松竹大船撮影所に全機能を移転していたが、小津は初めてのトーキー『一人息子』に小津組以外だれもいない蒲田で取り組み、これを完成させた〔。同作では、茂原は録音技師となり、撮影は佐々木啓祐番のカメラマン・杉本正二郎が受け持った〔一人息子 、日本映画データベース、2010年3月2日閲覧。〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「茂原英雄」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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