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茂庭 良元(もにわ よしもと)は、安土桃山時代から江戸時代前期の武将。仙台藩重臣。 == 生涯 == 天正7年(1579年)、伊達氏家臣・鬼庭綱元の二男として生まれる。幼名は小源太。 天正16年(1588年)に八幡宗実の養子となったが、文禄元年(1592年)に兄・安元が病死したため実家に呼び戻される。この年に鬼庭氏は豊臣秀吉の命により茂庭へと改姓しており、実家に戻った小源太も茂庭良綱と名乗った。文禄4年(1595年)に父・綱元が伊達政宗の命により強制的に隠居に追い込まれると、家督を相続して磐井郡赤荻城主となり5,000石を知行する。この命令に憤った綱元は伊達家から出奔している(2年後に帰参)。 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは伊達家に帰参した父と共に湯原城を攻略するなどの武功を立て、慶長8年(1603年)には、古田重直に代わって志田郡松山城主となり、5,365石に加増される。以後、茂庭氏は幕末に至るまで松山を治めた。 慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では政宗の庶長子である伊達秀宗の陣に属して戦う。大坂冬の陣の後、秀宗に伊予国宇和島藩10万石が与えられたため、父・綱元と共に宇和島に赴いて藩政立ち上げのため準備作業を行い、翌年の4月の大坂夏の陣には宇和島城から出陣した。 元和2年(1616年)に奉行職(他藩の家老に相当)を拝命すると、隠居までの35年間の長きにわたって務め上げた。寛永6年(1629年)に幕府より命じられた江戸城普請の際には普請奉行を務め、翌年には2,200石余を加増されている。寛永8年(1631年)、居城の松山城が平時の政庁としては不便であることから、将来の移転を見越した上で藩の許可を得て城の西向いの台地に下屋敷(上野館)を建設した。 寛永18年(1641年)、長男・長元が鉄砲の暴発事故により失明すると、二男・茂行が病弱であることを理由に、茂行を差置いて白石城主・片倉重綱の養子となっていた三男・延元を呼び戻して跡取りとした。この良綱の決定に対して茂行は猛反発し父子間の対立は抜き差しならぬ状態に陥ったが、藩主忠宗の裁定により、茂行を跡取りのいない弟・実元(父・綱元の隠居領である栗原郡文字を相続していた)の養子とし1,000石を分与することでこの一件は落着した。 正保元年(1644年)、寛永総検地の結果を受けての知行地再編にともない10,000石に加増された。同年4月に第2代藩主伊達忠宗の娘・鍋姫が柳川藩主立花忠茂に嫁いだ際には古内重広と共に輿渡しの役を務めている。また、この年の末には良元に改名している。これはのちに第4代将軍となる徳川家綱の諱を避けたものである。 慶安4年(1651年)9月、延元に家督を譲って隠居所の上野館に移り、承応3年(1654年)には入道して左月斎と号した。ただし、隠居後も忠宗から御用を命じられることがあり、その都度仙台に上って勤めを果たしていた。承応2年(1653年)に忠宗が弟の亘理城主伊達宗実と揉めた際には、五郎八姫の求めに応じて調停にあたり事態を収拾した。 万治2年(1658年)に伊達綱宗が家督を相続して第3代藩主となると、翌万治2年(1659年)4月には江戸に赴き松平信綱・酒井忠清ら幕閣を歴訪して若年の綱宗への力添えを依頼し、9月の綱宗初入部に際しては家臣団筆頭として太刀を献上した。 寛文3年(1663年)8月3日死去。享年85。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「茂庭良元」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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