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荀 彧〔彧は或の斜めの線に線を二つ加えたもの。〕(じゅん いく、163年(延熹6年) - 212年(建安17年))は、字は文若(ぶんじゃく)、豫州潁川郡潁陰県(現河南省許昌市)の人、後漢末期の政治家。諡は敬。『三国志』魏志、及び『後漢書』に伝がある。 若くして「王佐の才」とも称揚され、後漢末の動乱期においては、後漢朝の実権を握った曹操の下で数々の献策を行い、その覇業を補佐した。しかし、曹操の魏公就任に反対した事で曹操と対立し、晩年は不遇だった。 == 生涯 == === 名門荀家 === 祖父の荀淑(じゅんしゅく、字は季和)は荀子十一世の孫とされる〔後漢書/卷62/荀韓鐘陳列傳第五十二:〕、儒学に精通し、郎陵の令となったが、当時の朝廷を牛耳っていた梁冀一族を批判し、清廉な道を貫いたため、極めて名が高く「神君」と呼ばれ尊敬を集めた。後漢の順帝から桓帝にかけてその名を知られていたという。荀淑が死んだ時には村人が挙って彼の祠を建てたという。 荀淑には子が8人居り、上から荀倹(じゅんけん)・荀緄(じゅんこん)・荀靖(じゅんせい)・荀燾(じゅんとう)・荀詵(じゅんしん)・荀爽・荀粛(じゅんしゅく)・荀旉〔「甫」の下に「方」〕(じゅんふ)といった。彼らはいずれも評判がよく、「八龍」と称された。 荀彧の父は次男の荀緄〔緄は糸偏に昆〕である。荀緄は尚書から済南郡の相になった。 荀彧と同時代に活躍した人物としては、荀淑の6男で叔父の荀爽がおり、董卓に取り立てられ司空にまで上るが、董卓の暴政に反感する中で死去した。また、荀淑の3男の荀靖も荀爽と並ぶ名声を持ち、許劭に認められた(皇甫謐『逸士伝』)。 荀彧の従子(ただし、荀彧より年長)には同じく曹操に仕えた荀攸がいる。荀彧の兄弟には荀衍(じゅんえん)〔荀緄の3男。荀彧の長兄と次兄については、名も事蹟も不明〕・荀諶〔『三国志』「荀彧伝」本文によると弟。『荀氏家伝』では兄、『三国志演義』では従弟とされる。〕がいる。また、荀彧の従兄である荀悦(荀倹の子)は荀彧兄弟や荀攸と並ぶ名声を博した(『荀氏家伝』)。 荀彧が4歳の頃、権勢を振るっていた宦官唐衡の娘との婚姻が決まったとされる。父の荀緄が宦官の権勢に取り入ろうとしたためというが、このため、荀彧も批難を受けるようになったという。しかし、これには裴松之などから疑義も呈されており、宦官側からの圧力があった可能性も示唆している(『典略』)〔清流派の名士であった荀氏の子息が、宦官の一族と繋がった事で批判を受けたようであるが、当時4歳の荀彧が婚儀を取り決めるわけがなく、唐衡の荀家への圧力によるものであろう。〕。 荀彧は若い頃に何顒から「王佐の才を持つ」と称揚された。王佐とは徳治を旨とする王道を行なう君主を補佐する事である。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「荀イク」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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