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荀 顗(じゅん ぎ、? - 274年)は、中国三国時代の魏、晋の政治家。字は景倩。豫州潁川郡潁陰県(現・河南省許昌市)の人。荀彧の第6子で、荀惲の弟、荀粲の兄に当たる。 == 生涯と後世の評価 == 幼少時から、姉の夫である陳羣に才能を評価された。司馬懿は少年時代の荀顗に会い「荀令君の息子だけのことはある。近頃、袁侃に会ったが、彼もやはり袁曜卿の息子だけはあった」と感嘆したという。その後、兄たちがいずれも早世したため、最終的に荀氏の家督を継承することとなった。 彼が荀氏の家督を継いだ頃、魏では司馬懿・司馬師父子による専横が始まっていた。彼は司馬懿と親密な関係にあったため、司馬師・司馬昭による簒奪に協力的であり、曹氏への忠誠を貫こうとした甥の陳泰にその姿勢を非難された。そして、毌丘倹の反乱を鎮圧したときの功績により、万歳亭侯に封ぜられ、後司空に任じられた。司馬昭の死後は司馬炎に仕えた。そして、祖父や父を支えた功臣の一人として司馬炎から高く評価され、臨淮公に格上げされ、侍中・太尉に任じられた。 晋の成立後は、賈充とともに司馬衷(後の恵帝)を太子に推したり、その賈充の娘である南風(後の賈太后)を、「貞淑で品性の優れた婦人」と言って太子妃に進めるなどして、権力の中枢に取り入った。太子妃に推された賈氏が、粗暴で傲慢、さらに人を害し、時に殺害するという残忍な人柄であり、これを理由に司馬炎が賈氏を廃そうとすると、真っ先に反対を上表した。 暗愚で有名だった司馬衷の補佐として、司馬炎の弟で人望篤く聡明な司馬攸が推されたときも、賈充に追従してこれを退け、斉王に封じさせた。さらには、「藩屏を衰退させて滅びた魏を鑑とする」との理由で、皇親の諸王たちを遠国に封じ、軍事権を含む諸権利を持たせて藩鎮とする、という計画を賈充が主導して持ち上げると、これを積極的に支持し、「呉楚七国の乱という悪しき先例がある」との強硬な反対を退け推し進めた。 荀顗は司馬懿・司馬師・司馬昭・賈充と、それぞれの権力者の懐刀として狡猾に立ち回り、名声と地位を重ねた。賈氏や皇親の諸王の活動が、西晋の滅亡に繋がる八王の乱の遠因となった点も皮肉である。 『晋書』荀顗伝では、その人柄は「『三禮』に明るく儀礼に通じるが、筋道を質すような徳操を持っていない。荀勗と賈充の時代において、おもねっていただけである」と、手厳しい評価を下している。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「荀ギ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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