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草軽電気鉄道(くさかるでんきてつどう)とは長野県北佐久郡軽井沢町の新軽井沢駅と群馬県吾妻郡草津町の草津温泉駅を結ぶ鉄道路線(軽便鉄道)を運営していた東急グループの鉄道事業者。 鉄道事業廃止後も、会社は草軽交通というバス会社として残っている〔なお、草軽交通は2009年9月30日をもって東急グループから離脱した。〕。本項目では主に同社が運営していた鉄道路線について述べる。 == 概要 == 草津温泉は古くより名湯として知られていたが、明治終わりの頃になっても交通機関が未発達であった。草軽電気鉄道はスイスの登山鉄道に着想を得て、草津と浅間山麓の高原地への輸送を目的に着工されることとなった。大正期の1914年 - 1926年に順次路線を開通させた。開業に際し、以下のような唄も作られている。 # 私や草津の鉄道よ 長い苦労の効あって 開通するのも近いうち 前途を祝して踊ろうよ # 私や上州の草津町 浅間を右に高原の 海抜四千五百尺 お湯じゃ日本のオーソリティー # 湯の花かおる草津には 春は緑に秋紅葉 冬はスキーに夏は避暑 浮世離れた理想郷 この間1923年に吾妻川電力が沿線5カ所の発電所建設による資材輸送の必要から鉄道を傘下〔1932年度総株数4万株うち約14千株『株式社債年鑑. 昭和7年度』 (国立国会図書館デジタルコレクション)〕に収めると、同社の重役である河村隆実を社長に就任させ、社名変更、電化、草津温泉への延長、自動車兼営、電気事業など積極経営に乗り出し、そのための増資、社債発行をおこなった。 ちょうどそのころ法政大学学長の松室致は、自分の別荘が蒸気機関車の火の粉により火災にあい会社に抗議をしにおとずれたが、逆に説得され電化の事業に手を貸すようになった。そして松室から7.9万坪もの土地の寄付をうけることになりそれを元手に五百坪付の株式を売り出し130万円の増資に成功した〔『時事新報』掲載の1924年3月24日付記事「草津電気鉄道株式会社新株式募集 」(神戸大学附属図書館新聞記事文庫)〕。 ところが予期に反して利用者はのびず、政府の補助金を受けても赤字は埋まらない状態が続いた。配当も途中から無配となり、ついには社債も債務不履行となった。結局1932年社債権者集会では利率の大幅引下げを決議することとなる〔(備考)利率7.5分→3分『株式社債年鑑. 昭和11年度』 (国立国会図書館デジタルコレクション)〕。その他償還日(1934年9月)の延長は何度もおこなわれ最終的には1945年9月まで支払猶予したという。 なお建設費用をできるだけ抑えようとしたため、急曲線やスイッチバックがいくつも存在し、山岳地帯を走るにもかかわらず、トンネルは存在しなかった。勾配がきついところではブレーキをかけるのが大変だったと言われてもいる。それに加え、本来道床に必要な砕石も敷かれない区間もあった。線路規格も極端に低いものであったことから、55.5kmを走破するのに2時間半から3時間を要した。 高原地には、嬬恋・北軽井沢等の途中駅があった。高原列車として親しまれ、1951年には日本初のカラー映画『カルメン故郷に帰る』にも登場し、当時の様子を知ることができる。しかし、1935年に渋川 - 草津間などに国鉄バスが運行開始され〔1935年12月11日開通吾妻本線(渋川-真田間)(79Km)、上州草津線(上州大津-上州草津間)(15km)(『鉄道統計資料. 昭和10年度』 、地図『鉄道停車場一覧. 昭和12年10月1日現在』 )昭和15年10月号の時間表によれば渋川-上州草津間58km、所要時間3時間、運賃1円13銭に対して草軽電鉄は55.5km、2時間半から3時間で1円50銭であるが往復割引2円50銭〕、一般のバスの大型化が進むなど、草軽の輸送力は、他の輸送手段に比べてその差は歴然としており、乗客は次第に減少した。 さらに1945年に国鉄長野原線(現・JR吾妻線)の開通(長野原 - 草津温泉間は国鉄バスが旅客輸送を受けた)により利用者が国鉄側へシフト。さらに1947年に政府補助金制度も廃止され、度重なる台風災害は草軽創設以来、鉄道施設に最大の被害をもたらし、第一次廃線として1960年に新軽井沢 - 上州三原間が廃止。採算性もとれないと判断されていた上州三原 - 草津温泉間も1962年には廃止になった。 草軽電気鉄道は、観光に大きな功績を残しただけではなく、沿線町村の活性化にも重要な役割を果たした。物流の面でも、この小さな鉄道が大きな役割を持っていたのである。温泉地である草津町には食料を中心にした物資を運び、長野原町、六合村、嬬恋村の3町村から産出される農産物や、草津白根山周辺に点在した鉱山からの硫黄鉱石などが草軽電鉄によって輸送されたのである。そのため、定期列車は貨客混合列車が普通であった(貨物列車も設定されていた)。第二次世界大戦が終盤を迎える頃、草軽電鉄の輸送はピークに達した。その頃、硫黄の産出もピークを迎え、当時の硫黄鉱山を経営していた「帝国硫黄工業」と連携して、多量の硫黄鉱石が搬出され、戦争へ出てゆく兵士の出立なども草軽電鉄が使われることが多かった。 前述のように国鉄バスや国鉄長野原線の開業、台風災害による被害などでその役割を終えたが、沿線の町村に近代文明をもたらした存在であった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「草軽電気鉄道」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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