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荒尾 嵩就(あらお たかなり)は、江戸時代前期の鳥取藩家老。倉吉荒尾家初代。 == 生涯 == 文禄元年(1592年)、池田家家老荒尾成房の次男として三河吉田に生まれる。叔父荒尾隆重の養子となる。慶長19年(1614年)、大坂の役に養父隆重に従い出陣する。元和3年(1617年)、家督相続する。藩主池田忠雄、光仲に家老として仕えた。 寛永9年(1632年)、藩主忠雄が死去する。池田家が、忠雄の小姓・渡辺源太夫を殺害し逃亡した河合又五郎を匿う旗本達と対立関係にあったことと、嫡男勝三郎(光仲)が三歳と幼いために、20万石の減封とされる風聞があったが、嵩就が大老井伊直孝等、幕閣に工作したことが功を奏し、減封を免れ32万石で因幡、伯耆に転封されることとなった。転封後は、伯耆倉吉領8000石を知行する。寛文元年(1661年)、平敦盛の真影(狩野安信筆)を摂津国須磨寺に寄附する。寛文2年(1662年)、嫡男の宣就に家督を譲り隠居し、藩主光仲に隠居料1500石と合力米500俵を賜った。 寛文9年(1669年)8月19日死去。享年78。戒名は透関院殿練翁祐心居士。墓所は鳥取県倉吉市長谷寺。 次男の三信は、叔父三正の養子となり和田家を相続する。三男の秀就は、兄宣就の養子となり倉吉荒尾家3代となる。四男の重就は分家した。また、水戸藩家老で、徳川光圀に殺害された藤井徳昭は弟久成の四男である。嵩就の子孫は代々倉吉領主、鳥取藩家老として続き、明治維新を迎えた。 明治39年(1906年)に嘉就が男爵に叙されている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「荒尾嵩就」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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