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荒尾 成緒(あらお なりつぐ)は、江戸時代の武士(鳥取藩家老)。米子荒尾家9代目。10代清心斎の養父。 == 経歴 == 寛政7年(1795年)、鳥取藩家老荒尾成尚の長男として生まれる。 文政元年(1818年)8月、父の隠居により家督相続し、米子城代となる。文政2年(1819年)8月、初めて米子入りして一ヶ月あまり滞在した。米子入りの行列は壮麗を極め、その評判は鳥取城下にまで聞こえた。 特に、行列の所持する弓が、国主・城主にのみ許された「白藤巻の御弓」であったことは、人々を驚かせ、着座筆頭荒尾家〔鳥取藩では家老となる家柄を「着座十家」と呼び、特に米子荒尾、倉吉荒尾、和田、津田、鵜殿、乾の6家は「上六家」と呼ばれ、「下四家」米子分家、倉吉分家、池田(下池)、池田(山池)より格上とされた。また、「上六家」の中でも、功臣荒尾三兄弟の子孫の、米子荒尾、倉吉荒尾、和田の三家は、特に藩主家から特別扱いを受ける家柄であった。〕の藩内での権勢を示す出来事であった〔『米子市史』〕。 文政9年(1826年)10月、家老となる。文政10年(1827年)4月、内匠介と改名。嘉永元年(1848年)6月藩主池田慶行が早世。7月、江戸に出府し、加賀藩邸より、養子として藩主家相続が決まった慶栄を迎える。嘉永3年(1850年)12月、新藩主となった慶徳の将軍徳川家慶面前での元服の際に、ともに登城し将軍に拝謁を賜る。 嘉永4年(1851年)9月、隠居して家督を養子成裕(弟成孝の子)に譲る。文久2年(1862年)10月3日死去。享年66。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「荒尾成緒」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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